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英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.62 「80年代読売・日産2強時代のスパイク編(その2)」

前回はマリーニョさん(日産)、川勝さん(読売クラブ)のご活躍を中心に80年代前半のことを書きましたが、日産と読売が真のJSL2強時代を築いたのは80年代後半からでした。その間、同じ80年代でも前半と後半では、両チームの選手の愛用スパイクはかなり大きく変化し、前回ご紹介したようなプーマ(読売)対アディダス(日産)のスパイク対決ではなくなりました。

Biểu tượng 29634314 1815368455432881 1085668874 oHiroaki Konishi | 2021/11/24
マリーニョさんが加入されたころの日産はJSL2部から昇格したばかりでしたが、加茂監督が就任し、木村選手,金田選手の全日本コンビに加え、水沼選手(法政)、越田選手(筑波)、柱谷(兄)選手(国士館)、杉山選手(東農)、境田選手(愛学院)ら、大学サッカー界のスター選手が加入し、一気に戦力がアップしました。
そして、いきなりリーグ戦では読売についで2位(83年シーズン)、天皇杯では初優勝しました(図1)。 しかし、その後のリーグ戦でも常に上位になりながら、初優勝は1988-89年シーズンでした。 Ngón tay cái efbc92Hình 1 84年元旦の天皇杯優勝時(上)と88-89年シーズンJSL初優勝時(下)の日産サッカー部。上はほとんどの選手がアディダスのコパムンディアルを履いていますが、下はアシックス(柱谷(兄)選手)、プーマ(フジネイ選手、長谷川選手)、ミズノ(杉山選手)など、様々なメーカーのスパイクの選手がおられます。 

80年代半ばまでの日産の選手のスパイクといえばコパムンというイメージでした。しかし、80年代後半は確実に他のメーカーが台頭してきました。
アディダスのコパムン、ワールドカップは現在も生産されている驚異的ロングセラーの名品ですが、日産の選手愛用の西ドイツ時代に製造されたものと現行品は若干違いがあります(図2)。 Ngón tay cái efbc93Hình 2 83年ごろから日本でも使われ始めたđồng quê(左)と3マテリアルソールの新型ワールドカップ(右)。上は西ドイツ時代で、下は現行品。今も昔と変わらぬスタイルで生産され続けていますが、マークや3本線など細かい部分でいろいろ違いがあります。  

一方、川勝さんはラモス選手、与那城選手、加藤久選手、都並選手、戸塚選手など、そうそうたるスター選手を擁する読売で背番号10をつけ、84年のJSL1部リーグ2連覇にも大きく貢献されました(図3)。
 Ngón tay cái efbc94Hình 3 84年のJSL優勝を決める試合でPKキッカーを任され、見事成功された川勝選手。スパイクはおそらくBelt Meister. 

その後、85年のメキシコW杯最終予選でデビューしたプーマの名品パラメヒコ(図4)を、JSL選手もこぞって使用するようになり、日本では西ドイツ製のプーマスパイクを履く選手はほとんどいなくなりました(Đâyもご参照ください)。
Ngón tay cái efbc95Hình 4 西ドイツ製のプーマ「プロフェッショナル」(左)と日本製のプーマ「Paramehiko」(右)の比較。パラメヒコのシュータンには「DESIGN PUMA WEST GERMANY」の表示がありますが、西ドイツ製(MADE IN WEST GERMANY)ではありません(Đâyもご参照ください)。 

86年ぐらいからJSL選手のスパイクに大きな変化があったようですが、これにはやはり図5のプロ契約選手の誕生の影響があったと思います。西ドイツから帰国された奥寺選手(古河)と、日産の木村選手はプロ選手になりましたが、その他にも多くの選手がノンアマチュアとなり、このことがスパイクの選択権がチームではなく、選手個人に移った要因かと思われます。

そして、それまでは選手全員が同じメーカーのスパイクを履くチームが多かったJSLでしたが、(今では当たり前ですが)同じチーム内でも、選手それぞれが違うメーカーの好みのスパイクを使うようになったようです。
 Ngón tay cái efbc96Hình86年JSL東西対抗戦に出場した日本サッカー界最初のプロ契約選手のお二人(左)。日産でもコンスタントに活躍されていたマリーニョさんもこの試合に出場されていました(右).ちょうど、あと一歩のところで日本代表が予選で敗退し、本大会ではディエゴ様が大活躍したメキシコW杯が終わったころで、サッカー人気も徐々に上向きかけてきたころでしたが観客は多くはありません(おそらくゴール裏はほぼ無観客)。右端は現協会理事の原選手。    Ngón tay cái efbc97Hình 6 図5のマリーニョ選手のスパイクは左のワールドチャンピョン(固定式)か、ワールドクラス(取替え式)と思われます。86年メキシコW杯時にアディダスが発売した西ドイツ製ニューモデルです。 原選手はプーマがサプライヤーだった三菱所属で、この時期でも珍しく西ドイツ製のプーマのスパイクを好まれ、図5のスパイクはKINGと思われます(右)。  

80年代半ばまで、使用スパイクの主流はプーマだった読売の選手も80年代後半には様変わりしました(図7)。
ラモス選手はもともとアシックスも履いていましたが、87年ごろから当時は珍しかったナイキに変更し、ミズノを履く選手も増えてきました(図7)。 Ngón tay cái efbc98
Hình 88~89年ごろの読売クラブ(上と下左)。プーマ以外にミズノ使用選手(加藤久選手、加藤善之選手、堀池選手、トレド選手)が増えました(相変わらず観客は増えていませんが…)。ガンバの前身の松下やフリューゲルスの前身の全日空などがJSL1部に昇格する一方で、三菱、日立、マツダ、ヤンマーなどが2部へ降格することもあった古豪にとっては厳しい時代でした。右下のヤンマー・西出選手(赤)はこの時期のJSLでは珍しくヤスダのスパイクを履いています。

さて、80年代後半のJSLにおけるサッカースパイク勢力図を書き換えたのは間違いなくミズノだと思います。
ちょうどブラジルのカレッカ選手が86年W杯でミズノのスパイクを履いて活躍したころで、日本選手にもその良さが徐々に浸透し始めたようです。 私が調べたところ、いち早くJSLチームでミズノのスパイクを使い始めたのは日本鋼管だったと思います(図8) Ngón tay cái efbc99Hình86年のJSLリーグ戦でミズノのスパイクを履いてプレーする当時の日本代表GK・松井選手(左)。松井選手所属の日本鋼管はJSLでは珍しく、各選手が割と自由に違うメーカーのスパイクを履くチームだったと思います。右は、ミズノ、アディダス、プーマ、アシックスのスパイクを履く日本鋼管の選手たち。 

JSLではアシックス以外の日本製スパイクはマイナーでしたが、昭和の高校サッカーではヤスダは人気がありました。しかし、高校サッカーでもミズノのスパイクが使われだしたのは86年ごろでした(図9)。
Ngón tay cái efbc91efbc90Hình 高校選手権65回大会(86年冬)でミズノのスパイクを履いて活躍し、優勝した東海大一高校の大嶽選手と平沢選手(上)。これが初めてのミズノスパイクの選手権登場かと思いきや、62回大会(83年冬)でミズノのスパイクを履いていた安積商業の選手がおられました(下の左端). 

現在のミズノのスパイク(特にモレリアシリーズ)は日本代表クラスも愛用する高性能かつ一番人気の国産サッカースパイクです。水島武蔵選手が広告に載っていた頃のモレリアの復刻版(図10)もあるようですが、サッカー自体がマイナースポーツだった時代の日本でのみ販売されたモデルでしたので、80年代当時のものを今から個人レベルで見つけるのはほとんど不可能だと思われます。しかし、ミズノさんが会社でしっかり保管しているようです.

個人的には西ドイツ製スパイク限定コレクターなので、国産モデルにはあまり手を出さないようにしているのですが、たまたま見つけたMラインのモデルは衝動買いしてしまいました(図10中)。
Ngón tay cái efbc91efbc91Hình 名品モレリア発売当時の広告(右)。左は83年ごろ、まだMラインだったミズノのシューズを履く水島武蔵選手。 

パラメヒコが生産中止となり、国産プーマファンにとっては寂しい時代ですが、ミズノさんにはこれからも頑張ってほしいと思いますし、ヤスダさんも、プロ選手も愛用するまでに復活しているので,
イニエスタ選手愛用のアシックスさんも含め、国産スパイクの益々の躍進を期待しております。  

追記といたしまして、快足FWとして日本鋼管、読売クラブで活躍された元日本代表・浅岡朝泰さんが10月に逝去されました。ジョホールバルの岡野選手、ロンドン五輪の永井選手、現代表の伊東選手の活躍などを見ると現役時代の浅岡選手を思い出します。

ご冥福をお祈り申し上げます。