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英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.64 「アシックスの名品スパイクその2・特注モデル編」

昔はアディダス、プーマ、アシックスが各世代の日本代表の用具一式を持ち回りでサポートしていました。昭和の終わりから平成はじめに全日本やユース代表クラスが履いていた定番スパイクといえば、アディダスはコパムンディアル、プーマならパラメヒコだったと思います。しかし、アシックスについてはよくわからなかったので調べてみました。

Biểu tượng 29634314 1815368455432881 1085668874 oHiroaki Konishi | 2022/01/24
表紙画像は1987年ソウル五輪予選のアウェー中国戦で勝利した日本代表の選手たちです。その1ではイエローラインのXLシリーズを紹介しましたが、GK森下選手はそれらしきモデルを履いています。ただ、他の選手の白ラインのモデル名は今でも正確には答えられません。 

 図1は当時「アジアの核弾頭」として活躍された原選手(現・日本サッカー協会副会長)ですが、ソウル五輪予選では主に2種類のシュータンのモデルを履いていました。 これらのアッパーはそれぞれ、82年、85年に市販されたシャぺ850、インジェクター870に似ています。ちなみにシャぺ850の固定式版はインジェクター840が市販されていましたが、870の取替え式版は市販されませんでした。

Ngón tay cái efbc92図1 2種類のアシックスモデルで87年のソウル五輪予選でプレーされた原選手。それぞれのアッパーは右のモデルに似ています。850はカンガルー革、870はカーフ革でした。 

 しかし、87年当時には850も870もすでにカタログには載っておらず、その1でも紹介した多種多様なモデルが市販され、五輪予選の代表選手のスパイクがどのようなモデルだったのかまったく知りませんでした。  

 図2は近年、スパイクを集めだしてからオークションで購入した使い古されたモデルですが、870と同じタイプのシュータンで、おそらくこのころの特注品ではないかと思います。

Ngón tay cái efbc93図2 87年のソウル五輪予選での水沼選手(左)。オークションで購入したモデル名不明スパイク左)。かなり痛みが激しかったですが、おそらくカーフ革で、水沼選手のスパイクと似ています。 

 850、870タイプのシュータンのモデルは93年ごろまで代表クラスの選手たちに支給されていたようです。 図3は91年のキリンカップで初優勝した日本代表選手たちですが、ラモス選手は870タイプ(ラインはイエロー)で、柱谷選手は850タイプです(カズ選手についてはĐây)。

Ngón tay cái efbc94図3 柱谷選手のモデルに似た(おそらく)特注のインジェクターモデル(右)。 

 90年代になり、それまで長年、世界大会の本戦出場がかなわなかったフル代表より先に、世界への扉をこじ開けた若きレジェンドたちも図3のモデルを履いていました。
そして、そのころのユース世代を指揮していたのが名将・小嶺監督でした(図4)。  

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図4 93年U-17世界大会(日本開催)の戸田選手、宮本選手、中田選手(左)。当時画期的試みだった高校(小嶺監督)とクラブチーム(小見コーチ)の指導者が一緒に指揮をとられました。
 

選手たちのスパイクはこのころ発売された名品インジェクター2002に似ていますが、シュータンのマークの位置は図3のモデルと同じです。
結局、80年代半ばから90年代前半まで、アシックスはカンガルー革が好きな選手には850タイプを、カーフ革を好む選手には870タイプの特別モデルを支給していたようです。  

 個人的には(シュータンの中央が白い)870タイプが好きなため、つい手に入れてしまったモデルが図5です。 奇しくも国見高校の小嶺監督が選手権初優勝した時の決勝の相手だった静岡代表・東海大一(現・翔洋)高校の特注モデルです。

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図5 選手権66回大会(88年度)決勝、国見対東海大一戦(左)。
前年度パラメヒコを履いていた二宮選手(国見)は白いミズノ(当時はランバードと言っていました)を履いていました。右は東海大一仕様のアシックススパイク。つま先はノーマルの870とは異なる2枚革です。

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図6 事実上の決勝戦と言われた準々決勝対帝京戦でPK勝ちした東海大一イレブン。


前年度65回大会決勝ではサントス選手のFKなどで東海大一に敗れ、初出場・初優勝はならなかった国見でしたが、翌年リベンジを果たし、初優勝を飾りました。


 65回大会では、市販品のスパイクを履いていた東海大一イレブンでしたが、優勝後の翌年にチームでそろえたのが図5のスパイクだったと思われます。 澤登選手ら、後の日本代表選手(田坂選手、服部選手、伊東選手、森島選手など)を多く輩出した東海大一ですが、選手権出場は65、66回大会のみというのは今思うと不思議です。 それだけ当時の静岡県代表になることはとても難しかったんですね。  

 ところで、このころから帝京高もユニフォームカラーのヤスダではなく、アシックスのスパイクを履く選手が多くなった気がします。その中でも、澤登選手とともに大会のヒーローの一人だった磯貝選手は870タイプのモデルを履いていました(図7)。 また、少し時代が進みますが、70回大会で活躍した小倉選手もこのタイプを使っていました。

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図7 66回大会の磯貝選手(帝京)、70回大会の小倉選手(四日市中央工業)。右は一部のサッカーショップで販売されていたと思われる
シャぺ870.
90年代になってこれだけシンプルな白一色の取替え式ソールは他のメーカーではなかったと思います。   

また、これまで帝京高校仕様と思っていたペラーダスターを履く選手が66回大会に出場していました(図8)。
Ngón tay cái efbc99図8 66回大会でペラーダスターを履いてプレーする市立船橋・新井選手。準決勝の東海大一戦では図5のスパイクとのマッチアップがありました(挿入図)。 ユニフォームはミツカンではなく、懐かしのアドミラル。今年からなんとジュビロ磐田のユニフォームサポートされるそうです。 

 おまけとして、このころはアジア以外の海外の同世代のチームと試合をすることが珍しい時代でしたので、選手権後に優秀選手が選ばれてヨーロッパ遠征が行われ、現地のクラブチームの大会に出場していました。

 図9は優秀選手の合宿中の磯貝選手と永井選手(国見高)で、磯貝選手は大会中のアシックスではなく、当時市販され始めたアディダスのセラミックスタッドのモデルを履いていました。   Ngón tay cái efbc91efbc90図9 (上)お二人とも大会中はアシックスのスパイクでしたが、大会後の合宿では違うメーカーのスパイクを履いていました。永井選手はこのころからパラメヒコを愛用されていたようです。(下)セラミックスタッドモデルで、左は日本製で、右は西ドイツ製。   

 さて、昭和のころから長崎県代表の高校の監督として、全国大会で常に指揮をとっておられた印象がある小嶺忠敏さんが、奇しくも第100回大会の開催期間中に逝去されました。 昨年もこの時期は高校選手権にちなんだ当時のスパイクのことを書かせていただきましたが、オールドサッカーファンにとって今年の大会はやはり小嶺監督の訃報が一番大きな出来事だったと思います。 

 私にとっては国見高校というより島原商業の監督のイメージが強く、同校が84年度(昭和59年度)63回大会で初優勝した時に、小嶺さんが監督としてベンチにいなかったことがとても不思議でした。 長崎県の普通の社会科の先生なので、転勤もしかたがないことをあとから知って驚いた覚えがあります。
 しかし、驚くべきことに転勤した国見高校もすぐに全国に名だたる強豪校にしてしまい、その手腕を買われて、図4のようにユース世代の代表監督も努められました。
 国見高校では後のプロサッカー選手を多く育てられましたが、巻頭画像中の勝矢選手は小嶺監督と同じ島原商業、大商大卒で、小嶺監督が育てた屈強な日本代表DFでした。
 日本サッカー界に多大な貢献をされた偉大な監督のご冥福をお祈り申し上げます。   Ngón tay cái efbc91efbc91Hình 国見高校選手権初優勝の時  

 (写真はWEBサッカーマガジン、アフロ及びゲッティイメージズなどから転載させていただきました)