反骨心で勝ち取った信頼を自信に変えて J1の舞台に挑む町田也真人の覚悟 【前編】
「本当にいろんなことがありました。ジェフでは、ドン底も味わったけど、最後は10番を背負わせてもらい、成長を実感することができました。唯一の心残りは、J1に昇格できなかったことですね。」 こう語るのは、今季よりJ1松本山雅FC(以下、松本山雅)でプレーすることが決まっている町田也真人(29)だ。 2018年12月17日、ジェフユナイテッド千葉(以下、ジェフ)より、松本山雅へ移籍することが公式発表されると、SNS上は、惜しみつつも町田の新たなチャレンジを後押しするサポーターたちのコメントが溢れた。しかも、驚くべきことに、この移籍発表に際して、サポーターからの批判の声が町田の耳に入ることはなかったという。 中心選手としての立場を確立し、これほどまでにサポーターから愛されながらも、なぜ町田は、新たな挑戦をすることを選んだのか。彼のこれまでのジェフでのキャリアを振り返りながら、来季から新天地・松本山雅へ移籍するに至った決意の真相に迫る。
Taisuke Segawa
|
2019/01/21
挫折を味わった2014年のプレーオフ決勝
町田にとって、最初の大きな転機は、2014年シーズンの終盤に訪れた。専修大学を卒業し、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた町田は、プロ入り3年目より、徐々に出場機会を増やしていく。だが、チームは、シーズン序盤から勝ち星に恵まれず、夏場より、2012年のロンドンオリンピックで日本代表をベスト4へ導いた関塚隆(現 日本サッカー協会技術委員長)を監督に迎え、チームの立て直しが図られた。徐々に勝ち星を積み上げたチームは、終盤の連勝などもあり、J2リーグを3位で終え、J1昇格プレーオフへの進出を決めた。さらに、プレーオフを勝ち進み、プレーオフ決勝の舞台に進んだジェフは、運命の試合を、大歓声の中で迎える。味の素スタジアムで行われた2014年のJ1昇格プレーオフ決勝の試合は、3万5千人以上の観客を集め、スタジアムは黄色いユニフォームを身につけたジェフサポーター達で埋め尽くされた。スタッフ、選手、サポーター、スポンサー企業ら全てのジェフ関係者にとって、念願のJ1昇格が目前に迫っていた。
運命を決する大一番に、スターティングメンバーとしてピッチ上に立った町田だったが、決定機をはずしてしまうなど、本来のパフォーマンスを出すことはできなかった。チームとしては、多くのチャンスを作り出したが、惜しくも0−1で敗戦してしまう。その瞬間、全てのチーム関係者にとって念願だったJ1昇格の夢は儚くも消え去った。
さらに、町田の元には、「お前のせいだ」と避難のメッセージがたくさん寄せらてしまう。プレーオフの2日後には、怪我の手術のために入院したが、入院中、町田の頭の中には、常に後悔の念が駆け巡っていたという。
「決定機を外したあのシーンが、夢にまで出てきました。あの時決めていれば・・・。J1に昇格することを夢みて頑張った結果がこれかって。もうサッカーなんてしたくないなって思ってしまいました。」
さらに続いた試練
2015年、右肩の怪我から復帰するも、チームはなかなか安定した戦いをみせることができずにいた。5月に入ると、チームはさらに勝ち星から遠ざかる。すると、関塚監督は、調子の上がらないチームのテコ入れのために、シーズン途中で、システム変更を行う決断を下した。このシステム変更により、ポジションを失ってしまったのが、町田だった。4-4-2にシステム変更をし、町田の主戦場であったトップ下を置かない形にしたのだ。それまで先発出場を続けていた町田は、翌週から、一転してベンチ外という憂き目にあってしまう。
「一気に状況が変わってしまいました。仕方ないとはいえ、もう、最悪でしたね。いくら調子が良くても、プレーするポジションがないんですから。でも、プロサッカー選手としては、試合に出られなくても、やるしかない。だから、“来シーズンも関塚さんが監督を続けるなら、絶対に移籍して成功してやる”って思いながら、ただひたすら練習していました。」
一方で、その原因が自分にあることもわかっていた。攻撃の選手であるにも関わらず、それまでの半年間、ほとんど点を取っていなかったのだ。コーチの助言のもと、町田は、前線の選手として致命的な弱点を克服するため、どんな体勢からでもダイレクトでシュートを打つ練習を繰り返すことにした。構想外になりながらも、その悔しさを練習への意欲につなげ、ただひたすらシュート練習を繰り返した。すると、いつからか、練習試合や紅白戦で、少しづつシュートが入るようになる。こうして小さな努力を積み上げながら、徐々に自分を変えていったのだった。
再び掴んだスタメン出場の座、そして覚醒
2015年シーズンが終わると、チームは体制を一新し、改革に着手する。なんと24名もの選手を放出したのだ。シーズン中、構想外の扱いを受けていた町田は、当然ながら、チームから去る覚悟を決めていたが、新しく就任したばかりの高橋GMから、意外な言葉をかけられる。
「関塚さんがお前を残せと言っている。也真人はどんな時でもしっかり練習しているからと。」
こう告げられた時、町田には、その意味が理解できずにいた。関塚体制が続くならチャンスはないと感じていた町田の脳裏には、移籍という選択を迫られていたが、熱のある言葉に、愛するチームに留まることができる喜びに、残留という決断を下した。
しかし、そう簡単に自分の立場が一転するほど甘い世界ではなかった。キャンプが始まってからも、町田の立場は、構想外のままだった。
「僕を残せって言ったはずなのに、関塚さんは、そんなそぶりを全く見せないんですよ。練習試合でも紅白戦でも、僕だけずっと控え組。僕だけですよ、1回も変わらなかったのは。悔しかったけど、それでも、調子だけはすごく良くて、練習試合でも毎試合のように点を決めていました。」
すでに2016シーズンも開幕し数試合を消化していた。そんなある日の紅白戦のこと。はじめてスタメン組の中に、町田の名前があった。キャンプが始まって以来、それまで一度も載ることがなかった町田の名前が戦術ボードに掲載されていたのだ。これには、町田本人はもちろんのこと、チームメイトも顔を見合わせて驚いたそうだ。
早速、その週のリーグ戦でメンバー入りし、さらに第11節でシーズン初のスタメンの座を獲得すると、町田はすぐさま得点を挙げ、関塚監督の期待に応えてみせる。その試合をきっかけに、スタメンの座に定着すると、第13節ではチームを勝利に導く2得点の活躍をみせ、町田の才能は一気に花開いていった。その年、チーム最多となる11得点をあげ、覚醒ともいうべき、目覚ましい成長を遂げてみせたのだ。ある日、関塚監督と直に話をする機会があった時のことを、町田はこう振り返る。
「“苦しかったと思うけど、ずっとお前が一生懸命に練習に取り組んでいるのを見ていた。お前は俺を認めさせた。お前みたいな選手が増えてきてほしい”。関塚さんに、そう言ってもらいました。でも、それまでは、本当に苦しかったです。関塚さんへの反骨心だけでやってました。」
大きな成長を遂げた町田を支えていたのは、関塚隆への反骨心だったのだ。こうして、関塚を認めさせるほどの成功を掴んだ町田は、以降、名実ともにチームの顔に成長していくことになる。
「なんなんだ、この人は。っていつも思っていました(笑)。でも、間違いなく、僕を一番成長させてくれた監督でしたね。」
後編へ続く
Phỏng vấn / văn bản / ảnh:Taisuke Segawa