"Bảo hiểm xâm nhập HEROs AWARD 2018!" Cuộc phỏng vấn Vol.2 với ông Norihiro Akahoshi - Dụng cụ bóng chày mà vị vua bị đánh cắp nói riêng là gì?
「Ring of Red~赤星憲広の輪を広げる基金~」の活動が評価されHEROs AWARDを受賞された赤星憲広さん。この活動の話と現役時代にこだわっていたギアについての話を伺った。
Koike Kikuchi
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2019/01/27
Vol.1のHEROs AWARD2018のレポートはこちら
2001年、応援してくれていた一人の女性ファンと出会って、その方の車椅子を作ったことをきっかけに、様々な人に“プレー以外でもお返しを”と考え、車椅子の寄贈を始める。
2003年から現役を引退した2009年まで毎年1年間、盗塁した数の車椅子の寄贈を続け、通算301台の車椅子を寄贈した。
そして2009年の現役引退後もこの活動を続けたいと考え、基金を設立。現役引退後の車椅子の寄贈数は現在までに347台に達している。
(HEROs AWARDホームページより)
――本日は受賞おめでとうございます!赤星さんは怪我をされて一時的に歩けなくなった時に車椅子を使われた経験があるかと思いますが、実際に使用されてどう感じましたか?
赤星 やはり『不便な場所が多いな』といざ使う立場になって感じました。また、入院した病院自体に車椅子がそんなに多くなかったんです。
車椅子に乗る人はまだいるだろうと思ったので『俺は使わない』と言ってましたが、当時は手も動かず、足もあまり動かなかったので乗るしかなかったんです。
9年間の現役時代に車椅子を数多く届けたつもりでしたが、全然足りないなと感じたので、引退してからももっと沢山の車椅子を送らなければと思いました。
また、自分がいざ乗る立場になったことによって、もうちょっと工夫した車椅子を作らなきゃなとか、送るだけではなくてバリアフリー化を進めなければ、いくら届けても意味がないと引退してから気づかされました。
――バリアフリーの環境はまだあまり整っていないと感じますか?
赤星 関西は意外と整っていない場所が多いです。2020年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されるので、海外の方がたくさん来るでしょう。
2020年までにどこまで整備が出来るかといったら、完璧にするのは不可能に近いと思うんですよね。そこにお金をかけている余裕は今の日本にはないと思うんですよ。
もちろん大事な2020年というのはあるかと思いますが、短期的なことではなくて長期的なスパンで考えて『何か僕らも力になれないか』ということを車椅子を寄贈してきた立場としては考えなきゃいけないことだと思うので、何かやっていきたいんです。
――次にギアの話を伺います。ずばり野球のギアで1番こだわっていたものは何ですか?
赤星 ダントツでスパイクです!
――スパイクのどこをこだわっていましたか?重さですか?
赤星 球場によってスパイクは変えていました。当時はまだ広島市民球場がありました。同じ土のグラウンドなんですが、甲子園と広島市民球場は土の固さが全然違うんですよ。
甲子園が一番柔らかく、やはり地面にしっかり引っ掛からないとスタートがきれないので、いちばん歯(スタッド)が長いスパイクを使っていました。
広島はどちらかというとグラウンドが固かったので、あまり引っ掛かりすぎてしまうと足に負担がかかるので、逆に半分くらいの歯の長さにしていました。
雨が降るとグラウンド状態が変わるのでまたスパイク選びは変わります。当時の人工芝は、東京ドームと横浜スタジアムは芝の毛がツンツン立っていましたが、ナゴヤドームと神宮はまだ固い人工芝でした。そこで長い歯のスパイクで走ったらツルンツルンで滑るんですよ。
その球場だけは普段の3分の1くらいの長さの歯にしたり、サッカースパイクみたいに金属の歯ではないポイントの固定式スパイクのようにしたりと色々工夫をしていました。
最終的に人工芝でも土の箇所が最初の足を踏み入れる場所にあり、地面をしっかり蹴れないと意味が無いので、ちょっと短い歯にしてやってました。
その為、最低でも6種類くらいのスパイクを持っていましたよ。交流戦が始まるようになってからは、パリーグの球場でもやることが増えたので、またスタジアムに合わせてスパイクが増えました。毎回選ぶのがめんどくさいので数は減らしたかったんですけどね(笑)
――試合ごと、球場ごとにスパイクを使い分けてきたんですね。
赤星 グローブもバットも大事ですが、スパイクだけは絶対にずっと履いてるじゃないですか。守っていても、打つ時も走る時も。そこは野球選手として絶対にこだわらないといけない部分だと僕は思っていましたし、何よりも盗塁をする人間でしたので、人よりこだわっていたと思います。
大変だったのは使っていたスパイクメーカーのZETTさんです。僕が無理な注文ばっかり言ってたんでね。
もっと削ってくれとか、軽めに作ってもらってたので傷むのも早いのですが、傷まないようにしてくれとか。本当に申し訳ないなと思いながらもスパイクだけにはこだわりたいと思っていたので色々とお願いしていました。
ZETTさんも凄くいいスパイクを作りたいという想いを持っていました。当時ZETTのスパイクは、改良の余地が沢山あったんです(笑)これはZETTさんにも直接言っていました。
やはりミズノさんやアシックスさんなどの陸上シューズを作っているメーカーはずば抜けて良かったですから。
1年目に盗塁王と新人王を取って2年目のシーズンの時に色々なメーカーからスパイクだけ契約しませんかと話を頂きましたが、全部お断りしてZETTさんと引き続き契約しました。
――それはなぜですか?
赤星 ZETTのスパイクを何とかしたいという想いがありまして(笑)仮に僕が引退した後もみんなZETTのスパイクを使ってくれるような状況にしたいなという自身の勝手な想いがあったんです。
――それはZETTさんとしては物凄く嬉しいですよね。
赤星 未だに僕はZETTのアドバイザーとして残っています。ミズノさんやアシックスさんにはまだ及ばないかもしれませんが、ちょっとずつ改良して近づいてきたかなと感じています。僕のこだわりがある意味で実ったかなと思っています。
トータル9年間の中で381の盗塁をしましたが、正直ミズノやアシックスのスパイクを履いていたらあといくつか盗塁できてましたね(笑)
当時はそれぐらいこの2つのシューズは進化していましたし、それをZETTも認めていたので、一緒になって出来たんだと思います。いいスパイクを作りたいという熱い思いがZETTにあり、一緒にやっていきたいと思ったんです。
物の良さにも目がくらみましたが、冗談だから言える話なんで。本気で思ってたら言葉には出せないですよね。
引退して9年経ってますが、ZETTのスパイクは進化しているので注目してくださいね。
(Lên)
2001年、応援してくれていた一人の女性ファンと出会って、その方の車椅子を作ったことをきっかけに、様々な人に“プレー以外でもお返しを”と考え、車椅子の寄贈を始める。
2003年から現役を引退した2009年まで毎年1年間、盗塁した数の車椅子の寄贈を続け、通算301台の車椅子を寄贈した。
そして2009年の現役引退後もこの活動を続けたいと考え、基金を設立。現役引退後の車椅子の寄贈数は現在までに347台に達している。
(HEROs AWARDホームページより)
――本日は受賞おめでとうございます!赤星さんは怪我をされて一時的に歩けなくなった時に車椅子を使われた経験があるかと思いますが、実際に使用されてどう感じましたか?
赤星 やはり『不便な場所が多いな』といざ使う立場になって感じました。また、入院した病院自体に車椅子がそんなに多くなかったんです。
車椅子に乗る人はまだいるだろうと思ったので『俺は使わない』と言ってましたが、当時は手も動かず、足もあまり動かなかったので乗るしかなかったんです。
9年間の現役時代に車椅子を数多く届けたつもりでしたが、全然足りないなと感じたので、引退してからももっと沢山の車椅子を送らなければと思いました。
また、自分がいざ乗る立場になったことによって、もうちょっと工夫した車椅子を作らなきゃなとか、送るだけではなくてバリアフリー化を進めなければ、いくら届けても意味がないと引退してから気づかされました。
――バリアフリーの環境はまだあまり整っていないと感じますか?
赤星 関西は意外と整っていない場所が多いです。2020年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されるので、海外の方がたくさん来るでしょう。
2020年までにどこまで整備が出来るかといったら、完璧にするのは不可能に近いと思うんですよね。そこにお金をかけている余裕は今の日本にはないと思うんですよ。
もちろん大事な2020年というのはあるかと思いますが、短期的なことではなくて長期的なスパンで考えて『何か僕らも力になれないか』ということを車椅子を寄贈してきた立場としては考えなきゃいけないことだと思うので、何かやっていきたいんです。
――次にギアの話を伺います。ずばり野球のギアで1番こだわっていたものは何ですか?
赤星 ダントツでスパイクです!
――スパイクのどこをこだわっていましたか?重さですか?
赤星 球場によってスパイクは変えていました。当時はまだ広島市民球場がありました。同じ土のグラウンドなんですが、甲子園と広島市民球場は土の固さが全然違うんですよ。
甲子園が一番柔らかく、やはり地面にしっかり引っ掛からないとスタートがきれないので、いちばん歯(スタッド)が長いスパイクを使っていました。
広島はどちらかというとグラウンドが固かったので、あまり引っ掛かりすぎてしまうと足に負担がかかるので、逆に半分くらいの歯の長さにしていました。
雨が降るとグラウンド状態が変わるのでまたスパイク選びは変わります。当時の人工芝は、東京ドームと横浜スタジアムは芝の毛がツンツン立っていましたが、ナゴヤドームと神宮はまだ固い人工芝でした。そこで長い歯のスパイクで走ったらツルンツルンで滑るんですよ。
その球場だけは普段の3分の1くらいの長さの歯にしたり、サッカースパイクみたいに金属の歯ではないポイントの固定式スパイクのようにしたりと色々工夫をしていました。
最終的に人工芝でも土の箇所が最初の足を踏み入れる場所にあり、地面をしっかり蹴れないと意味が無いので、ちょっと短い歯にしてやってました。
その為、最低でも6種類くらいのスパイクを持っていましたよ。交流戦が始まるようになってからは、パリーグの球場でもやることが増えたので、またスタジアムに合わせてスパイクが増えました。毎回選ぶのがめんどくさいので数は減らしたかったんですけどね(笑)
――試合ごと、球場ごとにスパイクを使い分けてきたんですね。
赤星 グローブもバットも大事ですが、スパイクだけは絶対にずっと履いてるじゃないですか。守っていても、打つ時も走る時も。そこは野球選手として絶対にこだわらないといけない部分だと僕は思っていましたし、何よりも盗塁をする人間でしたので、人よりこだわっていたと思います。
大変だったのは使っていたスパイクメーカーのZETTさんです。僕が無理な注文ばっかり言ってたんでね。
もっと削ってくれとか、軽めに作ってもらってたので傷むのも早いのですが、傷まないようにしてくれとか。本当に申し訳ないなと思いながらもスパイクだけにはこだわりたいと思っていたので色々とお願いしていました。
ZETTさんも凄くいいスパイクを作りたいという想いを持っていました。当時ZETTのスパイクは、改良の余地が沢山あったんです(笑)これはZETTさんにも直接言っていました。
やはりミズノさんやアシックスさんなどの陸上シューズを作っているメーカーはずば抜けて良かったですから。
1年目に盗塁王と新人王を取って2年目のシーズンの時に色々なメーカーからスパイクだけ契約しませんかと話を頂きましたが、全部お断りしてZETTさんと引き続き契約しました。
――それはなぜですか?
赤星 ZETTのスパイクを何とかしたいという想いがありまして(笑)仮に僕が引退した後もみんなZETTのスパイクを使ってくれるような状況にしたいなという自身の勝手な想いがあったんです。
――それはZETTさんとしては物凄く嬉しいですよね。
赤星 未だに僕はZETTのアドバイザーとして残っています。ミズノさんやアシックスさんにはまだ及ばないかもしれませんが、ちょっとずつ改良して近づいてきたかなと感じています。僕のこだわりがある意味で実ったかなと思っています。
トータル9年間の中で381の盗塁をしましたが、正直ミズノやアシックスのスパイクを履いていたらあといくつか盗塁できてましたね(笑)
当時はそれぐらいこの2つのシューズは進化していましたし、それをZETTも認めていたので、一緒になって出来たんだと思います。いいスパイクを作りたいという熱い思いがZETTにあり、一緒にやっていきたいと思ったんです。
物の良さにも目がくらみましたが、冗談だから言える話なんで。本気で思ってたら言葉には出せないですよね。
引退して9年経ってますが、ZETTのスパイクは進化しているので注目してくださいね。
(Lên)