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Hãy nói về bóng đá Nhật Bản trước và sau "Thảm kịch của Doha"! Tatsuhito Kaneko (người sáng lập KING GEAR) x Asahi Ueda (đạo diễn phim của Doha 1993+) Vol.2

2人の出会いは今から約27年前の1992年。日本代表の遠征の地であったレッチェ(イタリア)でだ。当時、金子達仁はサッカーダイジェストの駆け出しの記者で植田朝日は大学生だった。そんな植田は映画監督として「ドーハ1993+」を作製し、ヨコハマフットボール映画祭で2月17日に上映する。そんな2人のドーハ前後における話をふんだんに聞いた。

Biểu tượng 16466945 810048175800857 1247399717 nKoike Kikuchi | 2019/02/09
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植田 そういえば「ドーハの悲劇」という言葉が出来るまでは「カタールに行こうぜ」とみんなに呼び掛けているし、ドーハじゃなくてキーワードはカタールだったんですよ。   

Kaneko そのドーハの時(1993年アジア最終予選)に日本がワールドカップに行けると思ってた?   

植田 行けると思ってましたよ。   

Kaneko 1966年の北朝鮮、78年のイラン、86年のイラク、86年から出ている韓国と最終予選に出る6カ国のうち、この4ヶ国がワールドカップに出た経験があるじゃない。だいぶしんどい試合になるとは思わなかった?       

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植田 でもアジアカップのグループリーグから見てましたが、日本だけやっているサッカーのクオリティがダントツで高かったんですよ。   

Kaneko 確かに。でもイラン戦なんかは完全な負け試合だった記憶があるんだよな。   

植田 グループリーグ最終戦ですよね。カズさんの「足に魂込めました」のゴールですよね。   

Kaneko 強いしデカイし、これはイランに勝つのは大変だなと思ってた。あとはあの頃に香港にいる友達からアジアの映像を集めまくっていたんだけど、イラクの8番のアーメド・ラディは凄かったんだよね。   

植田 ラディは凄かったよね。この間、イラクがテストマッチに来た時に選手団の団長みたいな立場で来ていたけどかなり太ってましたよ。

Kaneko あの頃のアジアで最高の選手だったよね。最後のイラク戦に関して言うとだいぶスイス人の審判が日本寄りだったじゃない。   

植田 だいぶっていうか完全にでしたよね。 

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Kaneko 「こんなんでワールドカップに行っていいんだろうか。イラクかわいそうだなっていう気持ちと、行きたいし行ったら感情が爆発するんだろうな」というモヤモヤ、モヤモヤ・・・オムラム! ああやっぱりっていうのが俺のあの時の心象風景ね。   

植田 俺からすると当時は携帯もないし、ネットもないから他の競技場の結果を知らないじゃないですか。だから追いつかれてダメなのかどうかも全くわからなくて。   

Kaneko 記者席では確かその情報が流れていたんだよな。   

植田 俺らは無くて。どうなってるんだ?終わった?と言ってる時に、選手がみんな下向いてるからこれは行けてねえんだろうなと思ってる時に「まだあきらめちゃいけない!」とか叫んでいる奴もいるから、まだ可能性があるのか?とも思うし。   

なんだかわからないけど、ずっと立ち上がらないしボロボロ倒れていってるから、これはダメだったんだなと思った。   

選手達は戦って頑張ったんだから励まさないといけないし、怒っている奴もいるし。   

Kaneko 北朝鮮と韓国の試合結果を選手は知ってたんだろうか?   

植田 ディド(ハーフナー・ディド⇒当時の日本代表のGKコーチ)が教えてくれたという話もあるし、周り見てダメだと思ったとか、雰囲気でダメだと思ったとか、みんな違いましたね。   

Kaneko 3-0で韓国が勝ったんだよね。前半のうちにスコア動いてたっけ?   

植田 前半は確か0-0だったのでは。(前半終了時点で0-0)
   
Kaneko だとしたら日本の選手はその試合の途中経過は知らないよね。   

植田 韓国のメディアの人がメディア席に2人いて大喜びしているのを日本の記者が見て気づいたみたいなことを何かの本で読んだ気がするな。   

俺らは全くわからない状態で、ワールドカップに行けないんだということがわかって、日本コールしている奴に「日本コールすんなよ!」って怒っている奴がいたり「アメリカに行こう」と歌っていたのに「フランスに行こう」と歌いだす奴もいて。   

それに賛同する奴も「ふざけんなよ!」とキレている奴もいるし。       

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ヤナガワゴーッ! なんかあの頃のスタンドの写真は、顔を上げている人とうなだれている人がいたりバラバラなんだよね。(※梁川剛⇒カメラマン・当時の試合も現場で撮影)   

Kaneko つまりまだ信じている人もいれば諦めている人もいたんだね。
 
植田 あのイラク戦のハーフタイムにテンション高くなっている選手たちが言うことを聞かないから「シャラップ!」とオフトが3回吠えたけど、指示を伝える前に選手達が出て行ってしまったことをみんな言ってましたよね。最後のベンチがおかしかったと。   

スタンドもそんな感じでしたよ。それまで俺の言う事しか聞いてなかった人たちが「Go To アメリカ!」と言ったり、普段は日本のことだけを考えているのに、最後にピッチに立たせたいみたいな感じで、猛烈にハーフタイムにアップしているサブの選手を応援しだしたり。   

今までにないグチャグチャな状態で。あと応援がむちゃくちゃ速かったのは覚えていて。あんなのって初めての経験だからしょうがないよね。 

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Kaneko そうだよね。話は変わるけどこの間、元サッカーマガジンの編集長の伊東武彦さんと飲んだんだよね。   

あの頃の伊東さんは俺からすると、物凄く大きな存在でどうやってこの人に立ち向かえばいいんだろうっていう状況だったの。   

92年あたりに突然サッカーダイジェストの先輩達がドドドドって辞めちゃって急遽、代表の取材に行かされたのよ。

人脈も何も全部サッカーマガジンに抑えられていて、あまりにも当時はダイジェストとマガジンの力の差があり過ぎたんで、たぶん脅威とみなされて無かったんだよね。   

それでけっこう良く伊東さんと飯を食べたりお酒を飲んだりしてて。ドーハの時もプールがホテルにあって、試合が無い時にそこでコーラを飲みながら話をしたりしてね。   

「俺、この大会が終わったらフリーになるから」と伊東さんは言ってて、当時フリーのライターっていう発想が俺には全くなくて。

まあそうだろうな、伊東さんだったらこのまま日本がワールドカップに行ったら、彼の書く記事は馬鹿注目されるだろうし、伊東さんの時代が来るんだろうなと思ってたのよ。   

そしたらあの結末でしょ。あのまま勝ってたらサッカーマガジンの圧勝なんだよね。なんせこっちは26歳の俺が1番で2番目はほぼルーキーの戸塚啓で。勝負になるわけもなく。   

だけどああなってマガジンとしてはワールドカップ出場という前提で作っているだろうと想像できたから「オフトよくやった」になるだろうと。   

それをやっても俺は食い込んでないし、コメントも拾えてないしってことで、「オフトお前のせいだ」って書いちゃえ!ってやったらそれがドカン!となって。   

でもそれは物凄く自信があって書いたものじゃないから。怖くて怖くて、こんなんじゃもう書けねえ、もっと自信つけたいと思ってスペイン(バルセロナ)に行くことにしたのよ。   

植田 その話は鳥肌が立つくらい面白くて。あの時までサッカーマガジンも含めてメディアの方は「朝日さあ」と良くしてくれてじゃないけど俺の話とかも拾ってくれたりしてたんだけど、ドーハで負けた次の号の編集長の文みたいなので、伊東さんが俺を叩く文を書いたのよ。   

当時20歳くらいだったから根に持っててね。「サポーターという妖怪たちが歌を歌ってどうのこうで」とサポーターが悪く書かれて。

恐らく選手とか監督や協会のことは悪く書けなくて誰かのことを書かないといけないと思ったのか。超面白くて。まあ今は笑い話なんですけどね。

Tiếp tục đến Vol.3
http://king-gear.com/articles/1027

この映画の詳細や植田朝日さんのこの映画へ懸ける想いは以下のページでご覧ください。

『ドーハ1993+』
https://greenfunding.jp/lab/projects/2633 

ヨコハマ・フットボール映画祭 
http://2019.yfff.org/  

表紙写真:ヤナガワゴーッ!
本文中の写真:菊池康平