キングギア発起人金子達仁氏×ビンテージスパイクコレクター小西博昭氏が「西ドイツ製PUMAスパイク」を語るvol.3
小西博昭氏が持参したPUMAのビンテージスパイクを、実際に履いて感触を確かめる金子達仁氏。さらに喜びを爆発させる金子氏と小西氏の対談は、1980年代のサッカー事情へと派生する。
Hidemi Sakuma
|
2018/10/15
「西ドイツ製PUMAスパイク」を語るvol.1
「西ドイツ製PUMAスパイク」を語るvol.2
Kaneko:小西さんは足の幅は細いんですか?
小西:いや、広いんですよ。大学時代は安いスパイクばかり履いてまして、西ドイツ製スパイクは憧れでサッカー用品専門店に行ってよく眺めていました。大学4年時の最後の最後にPUMAの西ドイツ製を買って履きました(注1)。
(注1)大学最後(87年頃)に初めて履いた西ドイツ製モデルのリオ(左)。同じモデル番号(396)の金色ラインモデル(海外での名前は「TORO」)が存在する。30数年前、リオは日本代表選手も履いていて、割とポピュラーなモデルだった。右のモデルは当時も幻のモデルとなっていた。
Kaneko:履いてみて、どうでしたか?
小西:記念に履いただけですから、全く覚えていないんです。
Kaneko:痛いっていう人多かったですけどね。これ見ると別に細くないな。
僕は第五中足骨がほぼ出ていない人間なんで、PUMAが全然苦じゃなかったんですけど。革靴の横幅も1Eですから。
小西:当時の日本代表選手の多くが嫌っていましたね。 (参照http://king-gear.com/articles/774)
Kaneko:木村和司さんとかそうでしたよね。
小西:ああいうところを観察するのが好きでして。
Kaneko:はい、僕も好きです!
小西:しがらみに近い位、使わされてた感がありましたよね昔は。
Kaneko:アシックスをPUMAに塗り替えたりしてましたよね(注2)。
(注2)小西氏はフェイクスパイクについては何度か紹介している。元イタリア代表アントニョーニ選手については、82年W杯でプーマからディアドラに変更したことは金子氏も掲載している(http://king-gear.com/articles/88)。フィオレンティーナ時代の実使用展示品スパイクのラインはプーマだが、ソールはアディダスのようだ。
Kaneko:いやー、ありがとうございました。これで総額幾らくらいですか?
小西:高くて1足2万円ぐらいです。安いものは捨てるような値段ですし。ネット販売か、オークションで全て買っています。私は人とは絡めないような山奥に住んでいますから、ネットだけが頼りなんですよね。
Kaneko:とはいえ、英語力がかなり必要じゃありません?
小西:マレーシアとかであれば、中学生英語で普通に通用します。
Kaneko:小西さんにキングギアのオーソリティーになっていただいて、こんなおもろい世界があるというのを伝えていただきたいですね。
小西:光栄です。ぜひよろしくお願いします。ところで、モデルによっては同じ物がいくつかあるので、1、2足であればこちらで飾っていただけたらと思います。
Kaneko:飾っていたら、僕は必ず盗みます(笑)。
小西:記念にお持ち帰りいただいて、家で眺めていただいて、また持ってきていただけたらと思います。
Kaneko:それこそ家にPUMA棚がありまして、全部飾って眺めているんですよね。
小西:ご自宅にサッカーダイジェストやマガジンが何十年分全てあるとのことですが、すごい量ですよね?今、古いサッカー雑誌を集めるのは大変ですが、私も重要な資料として80年代のサッカー雑誌は集めたりもしています。
Kaneko:もし手に入るようでしたら、サッカーダイジェスト88年の1月号で僕がデビューしたんですが、編集後記みたいなものに僕に関して埋め尽くされていますので。
小西:もしかしたら、あるかもしれないですね。
Kaneko:表紙がルイバロシュ。トヨタカップのポルトの特集だったので。またソウルオリンピック・アジア予選の日中戦があった。負けたから一面にならなかったんですよね(注3)。
(注3)小西氏はダイジェストはあまり持っていなかったが、運良くその号を保管していた。ルイバロシュ選手は160センチと小柄で、ポルトガル代表として活躍。画像右下に金子氏の初々しいコメントが掲載されている。
小西:私は歴史的瞬間を目にしようと、当時住んでいた愛知県から国立競技場に行きましたが、悲しい結果に終わりましたね。
Kaneko:まだ学生でしたが、あの試合が仕事デビューでコメント取りに行っていました。
小西:えー!なかなか取りづらいですよね、そんな大一番で負けたりしますと。
Kaneko:怖い先輩に「突撃してこい!」と言われたので行っていましたね(注4)。
(注4)20年ぶりのオリンピック出場をかけた中国戦の記事。金子氏と同い年の堀池選手、(一つ年下の)松山選手は既に主力として出場していた。金子氏は2人のコメントももらえたのだろうか?
小西:私は大学4年生でした。
Kaneko:え!小西さんと僕は完全に同い歳ですか?
小西:そうなりますね。
Kaneko:だから僕と(好みなどが)ドンピシャなんですね(注5)。
(注5)同紙には興味深い記事が多く掲載されていた。金子氏と小西氏と同学年の長谷川選手や、その後日本サッカーの支えたゴン中山選手、名波選手(当時中学生)。さらにセルジオさんのエラシコ教室についても触れられていた。
vol.4へ続く。
提供写真/小西博昭
Ảnh phỏng vấn / Hidemi Sakuma
◆ビンテージスパイクコレクター小西博昭氏の連載コラム
Sự đột biến lịch sử mà người anh hùng yêu thíchhttp://king-gear.com/feature_articles/162
「西ドイツ製PUMAスパイク」を語るvol.2
Kaneko:小西さんは足の幅は細いんですか?
小西:いや、広いんですよ。大学時代は安いスパイクばかり履いてまして、西ドイツ製スパイクは憧れでサッカー用品専門店に行ってよく眺めていました。大学4年時の最後の最後にPUMAの西ドイツ製を買って履きました(注1)。
(注1)大学最後(87年頃)に初めて履いた西ドイツ製モデルのリオ(左)。同じモデル番号(396)の金色ラインモデル(海外での名前は「TORO」)が存在する。30数年前、リオは日本代表選手も履いていて、割とポピュラーなモデルだった。右のモデルは当時も幻のモデルとなっていた。
Kaneko:履いてみて、どうでしたか?
小西:記念に履いただけですから、全く覚えていないんです。
Kaneko:痛いっていう人多かったですけどね。これ見ると別に細くないな。
僕は第五中足骨がほぼ出ていない人間なんで、PUMAが全然苦じゃなかったんですけど。革靴の横幅も1Eですから。
小西:当時の日本代表選手の多くが嫌っていましたね。 (参照http://king-gear.com/articles/774)
Kaneko:木村和司さんとかそうでしたよね。
小西:ああいうところを観察するのが好きでして。
Kaneko:はい、僕も好きです!
小西:しがらみに近い位、使わされてた感がありましたよね昔は。
Kaneko:アシックスをPUMAに塗り替えたりしてましたよね(注2)。
(注2)小西氏はフェイクスパイクについては何度か紹介している。元イタリア代表アントニョーニ選手については、82年W杯でプーマからディアドラに変更したことは金子氏も掲載している(http://king-gear.com/articles/88)。フィオレンティーナ時代の実使用展示品スパイクのラインはプーマだが、ソールはアディダスのようだ。
Kaneko:いやー、ありがとうございました。これで総額幾らくらいですか?
小西:高くて1足2万円ぐらいです。安いものは捨てるような値段ですし。ネット販売か、オークションで全て買っています。私は人とは絡めないような山奥に住んでいますから、ネットだけが頼りなんですよね。
Kaneko:とはいえ、英語力がかなり必要じゃありません?
小西:マレーシアとかであれば、中学生英語で普通に通用します。
Kaneko:小西さんにキングギアのオーソリティーになっていただいて、こんなおもろい世界があるというのを伝えていただきたいですね。
小西:光栄です。ぜひよろしくお願いします。ところで、モデルによっては同じ物がいくつかあるので、1、2足であればこちらで飾っていただけたらと思います。
Kaneko:飾っていたら、僕は必ず盗みます(笑)。
小西:記念にお持ち帰りいただいて、家で眺めていただいて、また持ってきていただけたらと思います。
Kaneko:それこそ家にPUMA棚がありまして、全部飾って眺めているんですよね。
小西:ご自宅にサッカーダイジェストやマガジンが何十年分全てあるとのことですが、すごい量ですよね?今、古いサッカー雑誌を集めるのは大変ですが、私も重要な資料として80年代のサッカー雑誌は集めたりもしています。
Kaneko:もし手に入るようでしたら、サッカーダイジェスト88年の1月号で僕がデビューしたんですが、編集後記みたいなものに僕に関して埋め尽くされていますので。
小西:もしかしたら、あるかもしれないですね。
Kaneko:表紙がルイバロシュ。トヨタカップのポルトの特集だったので。またソウルオリンピック・アジア予選の日中戦があった。負けたから一面にならなかったんですよね(注3)。
(注3)小西氏はダイジェストはあまり持っていなかったが、運良くその号を保管していた。ルイバロシュ選手は160センチと小柄で、ポルトガル代表として活躍。画像右下に金子氏の初々しいコメントが掲載されている。
小西:私は歴史的瞬間を目にしようと、当時住んでいた愛知県から国立競技場に行きましたが、悲しい結果に終わりましたね。
Kaneko:まだ学生でしたが、あの試合が仕事デビューでコメント取りに行っていました。
小西:えー!なかなか取りづらいですよね、そんな大一番で負けたりしますと。
Kaneko:怖い先輩に「突撃してこい!」と言われたので行っていましたね(注4)。
(注4)20年ぶりのオリンピック出場をかけた中国戦の記事。金子氏と同い年の堀池選手、(一つ年下の)松山選手は既に主力として出場していた。金子氏は2人のコメントももらえたのだろうか?
小西:私は大学4年生でした。
Kaneko:え!小西さんと僕は完全に同い歳ですか?
小西:そうなりますね。
Kaneko:だから僕と(好みなどが)ドンピシャなんですね(注5)。
(注5)同紙には興味深い記事が多く掲載されていた。金子氏と小西氏と同学年の長谷川選手や、その後日本サッカーの支えたゴン中山選手、名波選手(当時中学生)。さらにセルジオさんのエラシコ教室についても触れられていた。
vol.4へ続く。
提供写真/小西博昭
Ảnh phỏng vấn / Hidemi Sakuma
◆ビンテージスパイクコレクター小西博昭氏の連載コラム
Sự đột biến lịch sử mà người anh hùng yêu thíchhttp://king-gear.com/feature_articles/162