松山三四六(柔道家・タレント)が柔道を通じて伝えたい、日本人が歩むべき道vol.1「小中高時代に、柔道で日本一に」
世界柔道でのインタビューが話題になっている松山三四六氏(49歳)。現在、柔道家・タレント・ラジオパーソナリティ・歌手・長野大学福祉学部客員教授と、様々な分野で大活躍中だ。今年の7月に、松山氏が「1人でも多くの日本人に、柔道の素晴らしさを伝えたい」という想いから誕生した、書籍『世界の中で、いちばん柔道を知らない日本人へ(ベースボールマガジン社)』。今回は、松山氏に、壮絶な柔道人生について話していただいた。
Hidemi Sakuma
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2019/09/13
PROFILE
松山三四六 (まつやま さんしろう)
タレント、ラジオパーソナリティ、歌手、 柔道家、長野大学福祉学部客員教授
1970年7月9日生まれ。東京都出身。
小学1年生で柔道を始め、小学5年生から全国少年柔道大会で2連覇を達成。明大中野中学在学中に全国中学校柔道大会も制し、オリンピック代表候補として将来を有望視されていた。
しかし、度重なるケガにより、20歳で競技者としての道を断念。1992年、テレビ番組出演をきっかけに吉本興業に入社し、1994年同社を退社。現在、タレント、ラジオパーソナリティ、歌手、作家など幅広く活動。主な作品に「クマンバチと手の中のキャンディ」(文屋)、「ワインガールズ」(ポプラ社)などがある。
一方で、長野大学で社会福祉学部客員教授として教壇に立ち、小中高生や企業を対象とした講演会なども現在500本を超える。もちろん、柔道への情熱は引退後も変わらず、コーチとして畳に立ち、世界柔道選手権大会ではレポーターとしてマイクを握り、選手たちの声をお茶の間に届けている。
柔道無敵の小中時代から壮絶な高校時代へ
ーーまず、三四六さんの柔道との出会いから教えていただけますか?
松山:小学校1年生の時ですね。僕は力が強くガキ大将だったので、「この子に柔道をやらせた方が良い」と言われて始めました。町の大会では勝ち続け、5年生と6年生の時には全国大会で優勝し、中学では明治大学の付属に入り、3年生の時に全国大会で優勝しました。
高校1年生のときに国体予選の準決勝まで勝ち進むと、対戦相手の吉田秀彦に惜しくも負けてしまいました。その頃から身体がおかしくなり、小指の痺れ、腰痛、関節ねずみ、骨の破損と、柔道ではよくある症状が多く出てきたんです。
医者の先生に「若いので筋肉でカバーしていくしかないだろう」と言われたんですが、別の先生には「骨を取った方が良い」と勧められたので骨を取る手術を受けましたが試合で勝てなくなりました。2年生になっても回復しなかったので、ほとんど試合に出れなかったですね。
インターハイ前に1ヶ月で7キロ減量して、練習中に肋骨を折ったこともありました。病院でコルセットをはめられたので「3日後に試合なんです」と伝えると、先生に「それは無理だよ」と言われたので、「テメェーに何がわかるんだ」と先生の胸ぐらを掴んだこともありましたね。
あの時は、本当に悔しかったですよ。高校3年生のインターハイ予選の決勝では、肘が「バキーッ」と折れてしまったので、「終わった。もう柔道は辞めよう」と思い、柔道から離れるようになりましたね。
松山:辞めたかったのですが、当時の監督に「国体予選に出なさい」と言われたんです。とてもそのような気持ちになれなかったので、「明治大学に進学したいですし、柔道をやっている場合ではありません」と伝えました。すると、監督が涙を流しながら「辞めちゃダメだ」と説得をしてきたんですよね。
僕は監督の言葉に心を打たれたので、大会に出場しました。「練習もしてないし、どうせ1回戦負けだろう」と思っていたのですが、78キロ級で優勝してしまったんですよね。その時に「俺は、やっぱり天才なんだな」と思いましたし、柔道着を着て試合に出続ける限り負ける気がしなかったですからね。
それまでは、ものすごく努力をするんだけど最後に怪我をして結果が伴わなく、プレッシャーに押しつぶされてきました。ですが国体予選では腹をくくり、吹っ切れている状態で試合に出ることができ、「あれ?練習してないけど強いな」と感じる冷静な自分がいましたね。
国体では、投げられて半身の体勢で倒れたので完全に1本負けだと思う試合がありました。ですが、判定が「技あり」だったので試合は続き、それから僕が技ありを2つ決めて逆転勝ちをしました。決勝戦で対戦した相手は、その次の年にインターハイで優勝していました。この試合でも競り合いましたが、負けることはなかったですね。
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松山三四六著者「世界の中で、いちばん柔道を知らない日本人へ」
1970年7月9日生まれ。東京都出身。
小学1年生で柔道を始め、小学5年生から全国少年柔道大会で2連覇を達成。明大中野中学在学中に全国中学校柔道大会も制し、オリンピック代表候補として将来を有望視されていた。
しかし、度重なるケガにより、20歳で競技者としての道を断念。1992年、テレビ番組出演をきっかけに吉本興業に入社し、1994年同社を退社。現在、タレント、ラジオパーソナリティ、歌手、作家など幅広く活動。主な作品に「クマンバチと手の中のキャンディ」(文屋)、「ワインガールズ」(ポプラ社)などがある。
一方で、長野大学で社会福祉学部客員教授として教壇に立ち、小中高生や企業を対象とした講演会なども現在500本を超える。もちろん、柔道への情熱は引退後も変わらず、コーチとして畳に立ち、世界柔道選手権大会ではレポーターとしてマイクを握り、選手たちの声をお茶の間に届けている。
柔道無敵の小中時代から壮絶な高校時代へ
ーーまず、三四六さんの柔道との出会いから教えていただけますか?
松山:小学校1年生の時ですね。僕は力が強くガキ大将だったので、「この子に柔道をやらせた方が良い」と言われて始めました。町の大会では勝ち続け、5年生と6年生の時には全国大会で優勝し、中学では明治大学の付属に入り、3年生の時に全国大会で優勝しました。
高校1年生のときに国体予選の準決勝まで勝ち進むと、対戦相手の吉田秀彦に惜しくも負けてしまいました。その頃から身体がおかしくなり、小指の痺れ、腰痛、関節ねずみ、骨の破損と、柔道ではよくある症状が多く出てきたんです。
医者の先生に「若いので筋肉でカバーしていくしかないだろう」と言われたんですが、別の先生には「骨を取った方が良い」と勧められたので骨を取る手術を受けましたが試合で勝てなくなりました。2年生になっても回復しなかったので、ほとんど試合に出れなかったですね。
インターハイ前に1ヶ月で7キロ減量して、練習中に肋骨を折ったこともありました。病院でコルセットをはめられたので「3日後に試合なんです」と伝えると、先生に「それは無理だよ」と言われたので、「テメェーに何がわかるんだ」と先生の胸ぐらを掴んだこともありましたね。
あの時は、本当に悔しかったですよ。高校3年生のインターハイ予選の決勝では、肘が「バキーッ」と折れてしまったので、「終わった。もう柔道は辞めよう」と思い、柔道から離れるようになりましたね。
監督の言葉に心打たれ、再び日本一に
ーー壮絶な高校時代だったのですね。それで柔道を完全に辞めてしまったのですか?
松山:辞めたかったのですが、当時の監督に「国体予選に出なさい」と言われたんです。とてもそのような気持ちになれなかったので、「明治大学に進学したいですし、柔道をやっている場合ではありません」と伝えました。すると、監督が涙を流しながら「辞めちゃダメだ」と説得をしてきたんですよね。
僕は監督の言葉に心を打たれたので、大会に出場しました。「練習もしてないし、どうせ1回戦負けだろう」と思っていたのですが、78キロ級で優勝してしまったんですよね。その時に「俺は、やっぱり天才なんだな」と思いましたし、柔道着を着て試合に出続ける限り負ける気がしなかったですからね。
それまでは、ものすごく努力をするんだけど最後に怪我をして結果が伴わなく、プレッシャーに押しつぶされてきました。ですが国体予選では腹をくくり、吹っ切れている状態で試合に出ることができ、「あれ?練習してないけど強いな」と感じる冷静な自分がいましたね。
国体では、投げられて半身の体勢で倒れたので完全に1本負けだと思う試合がありました。ですが、判定が「技あり」だったので試合は続き、それから僕が技ありを2つ決めて逆転勝ちをしました。決勝戦で対戦した相手は、その次の年にインターハイで優勝していました。この試合でも競り合いましたが、負けることはなかったですね。
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