スティックに導かれた運命!瀬川真帆とフィールドホッケーの物語 vol.1
「挑戦こそ成長の源」。この信念を抱く瀬川真帆は、現在東京ヴェルディホッケーチームでフィールドホッケー選手として活動中。目標は2028年ロサンゼルスオリンピックで世界一になること。そのためには、日本全体の競技力を高めること、そして個々の成長が必要だと考えている。彼女はかつての日本代表のユニフォームを脱ぎ、一から再出発する覚悟で新たな挑戦に取り組んでいる。オフィスワークと競技生活を両立させ、時にはモデルとしても活動し、スポーツ選手の新たな道を切り開こうとする彼女の姿を、3話にわたるインタビューで紹介する。※メイン画像/松川李香(ヒゲ企画)

フィールドホッケーとの運命的な出会い
撮影/松川李香(ヒゲ企画)
幼い頃、私の世界はいつもスポーツに彩られていました。兄が一人、従兄弟が三人、みんな男の子。彼らと一緒に過ごす日々の中で、私は自然とその輪に溶け込んでいきました。兄たちは私よりもずっと年上で、最も歳の近い兄でさえ6歳の差がありました。それぞれが異なるスポーツに情熱を注いでいて、野球や卓球、陸上競技の楽しさを教えてくれました。母もまたスキーを楽しんでいたので、私の生活はまさにスポーツ一色でした。
そんな中で、私が特別な出会いを果たしたのがフィールドホッケーでした。小さな町で育った私にとって、フィールドホッケーは町の風景の一部でした。小学校の授業でも取り入れられ、町民向けの大会も頻繁に開催されていました。幼い頃から、スティックを手にした人々が街を歩く姿を見て育った私は、自然とその世界に引き込まれていったのです。
小学校2年生か3年生の頃、先輩たちが卒業してしまい、チームは大会に出場するための人数が足りなくなりました。そんな時、友人のお母さんから「人数が少ないから出てほしい」と誘われたことが、私のフィールドホッケーとの出会いの瞬間でした。
正直に言うと、フィールドホッケーを始めた当初は楽しさを感じることはほとんどありませんでした。5歳の時に突発性ネフローゼ症候群という病気にかかり、運動が禁止されていたため、体を動かすことに飢えていた私は、母に「サッカーをやりたい」と頼みました。
しかし、飽き性の私が長く続けられるとは思わなかったようで、断られてしまいました。でも、なぜかフィールドホッケーだけは「人数が少ないからやってもいい」と許可が出て、私はその道を歩み始めました。
最初は義務感に駆られていただけでした。それでも、スティックを握りしめてフィールドを駆け抜ける感覚が、次第に私の心を捉え始めました。兄たちと違って、私だけの特別なスポーツ、フィールドホッケー。町の一部でありながら、私の心の中で特別な場所を占めるようになったフィールドホッケー。その出会いが、私の人生に深い彩りを与えてくれました。
少人数で挑んだ奇跡、高校インターハイ優勝の快挙!
撮影/松川李香(ヒゲ企画)
いろんなスポーツに触れてきた私ですが、どれも平均以上にはこなせるものの、特に突出した才能があったわけではありませんでした。フィールドホッケーも例外ではなく、ボールの扱いやスピードが求められるこの競技において、特に難しさを感じていました。それでも、その難しさこそが私を引きつけ続けたのです。走るスピードが6秒台でなければならないなど、厳しい要求が私の挑戦心をかき立てました。
そんな私のフィールドホッケーでの最大のターニングポイントは、高校時代のインターハイでの優勝でした。フィールドホッケーは本来11対11で行う競技ですが、私たちは8人や9人という少人数で試合に挑み、奇跡的にインターハイで優勝することができました。この快挙は史上初のことだと聞いています。
フィールドホッケーは一人の力では成り立たないチーム競技です。一人がどれだけ上手くても、チーム全体の力がなければ勝利は得られません。私たちのチームには、特別に目立つ選手は少なく、ジュニア代表に選ばれていたのも2、3人程度でした。他のメンバーも確かに上手でしたが、特別な意欲を持っているわけではありませんでした。それでも、全員が「チームで勝ちたい」という強い思いを持っていました。その思いがチームを一つにし、私たちは一つの奇跡を起こすことができたのです。
インターハイでの優勝は、私にとって最初の大きな成功体験でした。この経験が私にとって特別な意味を持つのは、単なる勝利以上のものを感じたからです。それは、仲間と共に挑み、努力し、そして達成したという絆の証でした。少人数で挑んだ私たちの挑戦が、誰もが予想しなかった形で実を結び、心に深く刻まれた瞬間でした。
史上初の快挙を生んだ特殊なチーム作りと指導法
撮影/松川李香(ヒゲ企画)
当時のチームの監督とコーチは独特な指導法を持っていました。今ではコーチングとティーチングの違いがよく議論されますが、強いチームは往々にして、なぜそれをするのかという理由を教えられず、ただ指示に従ってやらされるというのが、従来の日本のスポーツ教育の文化だったと思います。
しかし、私たちの監督は違いました。そもそも11人揃っていなかったので、「ピッチに入った時に何をするか、どうやりたいかを決めるのは自分たち一人ひとりだ」と教えてくれました。監督は試合の前までに多くの助言をしてくれましたが、実際の試合では私たちが主体的に考えるように促していました。
撮影/松川李香(ヒゲ企画)
監督はコーチングに近いアプローチを取っていて、なぜそれをしたのかと理由を尋ねることが多かったです。その理由がなければ怒られることもありました。例えば、監督が「誰々にパスを出したほうがいい」と言ったとしても、私たちが「いや、こっちのほうが良かった」と考えた理由をきちんと説明すれば納得してくれました。もしパスを出せなかった理由がボールの持ち位置にあったなら、その位置を改善すればいいという結論に至ります。
このように、監督は自分たちが考え、判断する力を育ててくれました。その結果、たった8人で試合に臨んでも、全員がどのポジションでもプレーできるようになりました。全員が互いの役割を理解していたので、ポジションが変わってもチームとして強かったのです。このアプローチが、私たちのチームが成功する鍵だったと思います。
Vol.2に続く。
瀬川 真帆
1996年6月23日、岩手県出身。フィールドホッケー選手。幼少期に長期におよぶ闘病生活を乗り越え、小学生の時にホッケーを始める。中学時代には全日本中学大会、高校時代にはインターハイ優勝、海外遠征(U-16、18)への参加など多くの実績を残し、卒業後はソニーHC BRAVIA Ladiesに所属。スペイン・レアルソシエダへのレンタル移籍を経験し、2021年から東京ヴェルディホッケーチームに所属。そして東京オリンピックに日本代表として出場。並行してOLとして働きながら、モデル活動も行うなど多様なキャリアを実現している。
Hair&make:Marijo Nishizawa(PUENTE Inc.)
Photo:Rika Matsukawa

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