
冷めない情熱、好きという気持ち。フットバッグプレイヤー・石田太志が、日本史上初のプロ転向を決断した理由
お手玉を足で蹴って遊んだり、サッカーのようにリフティングをしたことはあるだろうか。実際にこれをトレーニングとして導入するスポーツチームや、高齢者向けのレクリエーションとして行う病院や介護施設もある。じつはこれ、フットバッグという、毎年世界大会が開催されているほどの人気競技なのだ。直径5cm程のお手玉のような「Bag(バッグ)」というボールを使い、まさにリフティングの要領でさまざまな足技を繰り出し、評価点を競い合う。そんなフットバッグの世界で長く第一線を走り続けているのが、石田太志だ。彼は日本唯一のプロフットバッグプレイヤーであり、アジア人初となる世界大会での優勝を3度達成、さらにフットバッグ界の殿堂入りも果たしている。すでに日本を飛び越え、世界を代表する名プレイヤーとして歴史に名を刻んだ石田へのインタビュー企画。全3回のうち第1弾目となる今回は、フットバッグとの出会いから、プロ転向を決断するまでの経緯を聞いた。※メイン画像撮影/長田慶

挫折は、新たな挑戦の始まり。サッカー経験者でも苦戦する“足技競技”フットバッグとの出会い
撮影/長田慶
ーーフットバッグと出会うまでの経緯をを教えてください。
もともと小学校から高校までサッカーをしていました。Jリーグが発足して間もないタイミングでもあったので、プロを目指して練習に取り組んでいました。しかし、やはり上には上がいて、大学に進学する頃に挫折してしまったんです。
サッカーを続けるか悩んでいた時に、ふとスポーツショップに立ち寄りました。そこで、フットバッグの商品が販売されていることに気づきました。外国人がフットバッグをプレーしているビデオも流れていて、それを見た瞬間に衝撃を受けたんです。スケートボードみたいにダイナミックでかっこいい映像演出でしたから。すぐに始めてみようと思いました。それが2003年4月の頃です。
ーーそこからフットバッグの世界にのめり込んでいったのですね。
はい。めちゃくちゃ落ち込んでいた時期だったので、その心のモヤモヤが一気に晴れたことをいまでも覚えています。早く練習したくて、大学の授業を抜け出すぐらいハマりまくってました(笑)。
ーー初めてやってみた時の感想はどうでした?
実際にやってみると、まさかここまで難しいとは思わなかったです。はじめの1週間は毎日2時間ぐらい練習していたんですけど、なかなか上手くならなくて。最初はちょっと挫折しかけましたね。
ーー誰かに教わったりはしなかったのですか?
独学で練習していました。その当時は、選手として活動している人は国内にあまりいなかったので、そもそも誰かに教わることができる環境ではなかったんです。なので、小学生時代に所属していたサッカークラブの仲間を2〜3人誘って、一緒に練習してはいたんですけど、みんな素人なので、どちらかというと趣味の範囲でやっていた感じですね。
ーー具体的にどのあたりに難しさを感じました?
そもそも、ボールを足に乗せるのもままならないんですよ。サッカーでいうと、ボールをインステップキックで蹴るとか、それぐらい基礎的なレベルにあたるんですけど、それすらもたどり着けない。練習初日に2時間練習しても、1回も足の上に止められませんでした。本当に悲しくなりましたよ……(笑)。
サッカーをやっていた時は、最終的にはリフティングが1,000回ぐらいはできるようにはなったんですけど、フットバッグだと最初は3回しかできなかったり。こんなに難しい競技なのかと絶望感を感じましたね。
撮影/長田慶
ーー意外とサッカーの経験を生かしづらい競技なのでしょうか?
基礎的なところに関してはサッカーに近い部分はあるので、経験がある方が競技に入りやすいとは思います。ただ、フットバッグは直径5cm程のお手玉のようなボール(バッグ)を使うので、サッカーボールとは全然大きさが違いますし、弾みません。サッカーにはフットバッグでは生きない特有の癖もあります。始めたばかりの頃はまだいいですけど、サッカーの感覚でやり続けることには限界がありますね。
初の日本一達成につながった1年間のカナダ武者修行
撮影/長田慶
ーーサッカーのリフティングと同じようなイメージでしたが、まったく違うのですね。技を習得するのは、より大変そうに思えます。
最初は本当に苦戦しましたが、2週間ほど経った頃には3〜4個、“回し技”ができるようになりました。そして3ヵ月後には、サントリーのペプシコーラ主催の全国大会が開催されたので、それに出場することにしたんです。その頃には1分ほど続けて演技ができるようになっていましたから。
約100人の参加者がいたなか、4〜5種目にエントリーして挑戦しました。けど、そのうち1種目は決勝に進出したものの、ほかは全部予選落ちという結果に終わりました。まったく歯が立ちませんでしたね。
ーー2006年には日本のトップを決める大会で初優勝されました。ここに至るまでの3年間で、日本一を勝ち取るまでの技術を身につけられた要因はなんでしょう?
まず、フットバッグを始めた2003年は独学で練習してましたけど、上手くなろうにもさすがに限界がありました。加えてコーチもいない。じゃあ上達するにはどうしたらいいのか。そう考えた時に、翌年の2004年にカナダのモントリオールで世界大会が開かれることを知りました。だったら、生でスタープレイヤーの演技を見て、直接アドバイスをもらおうと。そう思い、現地に行って世界大会に挑戦することを決めたんです。
撮影/長田慶
中級者クラスに出場して、結果は6位。実際に世界の舞台を経験し、それまで趣味としてやっていたフットバッグで、初めて明確な目標ができました。それが世界一です。そのために、生で見た最高峰のプレーや、選手からもらったアドバイスを元に練習しようと思ったんですけど……じつは英語が話せなくて(笑)。全然話が通じず、せっかくのアドバイスを取り入れられなかったんです。それがショックで……不完全燃焼で帰国してしまいました。
めちゃくちゃ悔しかったですし、今後、世界一になるためには英語力の向上は必須だと感じたので、2006年から大学を休学して1年間カナダに留学したんです。その期間に語学学校に通ったり、もともとファッションが好きだったのでアパレルのお店で働いたりしていました。そうすれば、英語での仕事のやり取りが必然的に生まれますから。
競技面でも多くの選手と一緒に練習できて、基礎的なことも学べましたし、どんどん技術も身についていきました。こうした多くのことを経験できたからこそ、2006年の全国大会で優勝して日本一になれたんだと思います。結果が出て本当に嬉しかったです。
ーーやはり本場の技術レベルの高さは日本とは違いましたか?
全然違いましたね。そもそも根本的な部分というか、フットバッグへの向き合い方で違いを感じました。というのも、日本人って練習をするにもコツコツやるイメージがあるじゃないですか。実際は逆で、日本人の方が派手な一発技に挑戦したがる傾向があるんですよ。だけど基礎がままならないから、本番になるとミスが多くなってしまう。
それに対して外国人は、たとえつまらなくても基礎練習をとことんやるんです。それがけっこう意外でしたね。きっと、歴代の名選手からフットバッグという競技の基盤として受け継がれているんだと思います。それぐらい基礎は大事なことなんだなっていうのはあらためて感じましたし、すごく勉強になりました。
決して冷めないフットバッグへの情熱。プロ転向への決断

撮影/長田慶
ーー大学卒業後は就職されたんですよね。
はい。「株式会社コムデギャルソン」というアパレル企業に就職しました。伊勢丹新宿店のメンズ館で販売をしていましたね。大学では情報系の学科だったので、パソコンスキルを生かせる企業への就職も選択肢にはあったんですけど、途中からアパレルに興味を持ち始めたことで気持ちが変わっていきました。実際にカナダでアパレルの仕事をしたことも、進路を決める上では大きかったですね。
ーーアパレルの仕事も好きでやられていたとは思うんですけど、そこからプロ転向という決断に至ったきっかけは何だったのでしょう?
いくつか要因はあるんですけど、ひとつはフットバッグにすごく可能性を感じたということ。もともとは病院で膝を手術した患者のリハビリのために、靴下に豆を入れて蹴っていたことがきっかけで生まれたスポーツなんです。
そういった競技以外の側面でも有効ですし、バッグひとつあればどこでもできる手軽さ、ひとりでも複数人でも楽しめる遊びとしても人気が高い。いろんなスポーツのトレーニングにも使用されていますし、まだまだ無限の可能性を秘めているという意味でも、もっとフットバッグを広めたいと思ったんです。
それともうひとつ、僕がフットバッグをやめられないほど好きだということですね(笑)。学生時代にスポーツをやっていても、社会人になったタイミングでやめちゃう人って多いじゃないですか。僕自身も就職した時に、仕事が忙しくなったらフットバッグをやめてしまうんじゃないかと、少し思ってはいたんです。
撮影/長田慶
その中で練習は週5日、深夜0時〜2時ぐらいまでやって、朝出勤するという生活を4年弱続けました。それで感じたのは、やっぱりフットバッグへの情熱は冷めないということ。「やめよう」とか「やりたくない」という気持ちにはまったくなりませんでした。
アパレルの仕事も好きだったんですけど、もしフットバッグだけで食べていけたら、それほど幸せなことはないなと。もちろんその事例はないんですけど、そう思えたことが、プロ転向への大きなきっかけになりましたね。それで2011年8月に退職して、独立。国内に誰もいないので、「プロフットバッグプレイヤー」という肩書きを自分で作りました(笑)。
ーーそうだったんですね(笑)。お話を聞いていて、フットバッグに対して本当に強く、いろんな想いを抱いているんだなと感じました。ズバリ、石田さんが競技を通して一番伝えたいことはなんでしょう。
最初は「フットバッグを知ってほしい」という気持ちが強かったです。僕がプロを目指していたサッカーをやめるくらい面白いと思えるものに出会えたという、この興奮をほかの人にも知ってほしかった。
でも、いまは少し違います。もちろんその気持ちもベースにありつつですが。フットバッグじゃなくてもいいので、何かにのめり込めるものを多くの人に見つけてほしいなと。それによって、きっと、それぞれが幸せを感じることができるはずですから。この想いを、フットバッグを通してたくさんの人に伝えていきたいですね。
Vol.2につづく。
石田太志(いしだ・たいし)
神奈川県横浜市出身のプロフットバッグプレイヤー。
高校まで12年間サッカーを経験。大学入学直後にスポーツショップで海外プレイヤーのフットバッグの映像を見て衝撃を受けたことをきっかけに、フットバッグを始める。2006年にカナダへ留学。語学を学びながらフットバッグの技術を磨き、同年の日本の全国大会「JAPAN FOOTBAG CHAMPIONSHIPS」で初優勝を飾った。大学卒業後は株式会社コムデギャルソンに就職したが、フットバッグの普及・認知拡大を目指し、2011年8月に退職。独立して、日本人初のプロフットバッグプレイヤーとして活動を始める。2014年には世界大会である「World Footbag Championships」で初優勝、アジア人初の世界一に輝いた。2018年には2度目の世界一に加え、アジア人で初めてフットバッグ界の殿堂入りも果たす。これは約600万人いるプレイヤーの中で、過去50年の間に83人のみ選出されている。翌年には全米選手権「Footbag US Open Championships」で初出場、初優勝を成し遂げ、史上初の日本とアメリカ、2カ国のチャンピオンに。2021年にはギネス世界記録保持者にもなった。2024年には3度目の世界一を達成し、競技普及などフットバッグ界への貢献度が認められて再び殿堂入りを果たした。また、日本で唯一のプロフットバッグプレイヤーとしてメディア出演やパフォーマンス活動、講演等も精力的に行っている。
Ảnh:Kei Osada

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