
【選手ヒストリー】沖縄からプロの舞台へ。怪我を乗り越えたサイドスローの軌跡ー比嘉幹貴(オリックス・バファローズ)活躍の軌跡/2024年プロ野球引退選手
沖縄県沖縄市出身の比嘉幹貴投手は、沖縄市立中の町小学校の3年次に野球を始め、その後も地元の沖縄市立コザ中学校を経てコザ高校に進学した。その後は、国際武道大学で通算29勝を挙げた活躍が認められて日立製作所に入社。2009年のドラフト2位でオリックス・バファローズに入団し、リリーフとして14年に渡って活躍した。※イラスト/これ松えむ

沖縄県沖縄市出身の比嘉幹貴は、県内高校の教諭で野球部の監督を務めた父・順二さんの影響もあり、沖縄市立中の町小学校3年生の時に少年野球チームの「武蔵」に入部し、野球をスタートさせた。当時、比嘉は遊撃手を中心にプレーしていたが、時には投手としても登板することもあったそうだ。野球の魅力に没頭していた小学校6年生の時に、比嘉は左ヒザ離断性骨軟骨炎を発症し、その後2年間は運動を控えた生活を強いられた。激しい運動ができずに辛い日々を過ごしていた比嘉だが、中学3年生の時に医師から運動の許可が出ると、軟式野球部に入部。わずか3ヶ月の活動だったが公式戦に出場し、再び野球に打ち込む日々を送ることとなった。
無名からの大逆転!大学で築いた輝かしい成績
コザ高校に進学すると1年の時に、サイドスローのスローイングを活かすために内野手から投手に転向し、投球技術に磨きをかけていったが、甲子園の出場は果たせず。最後の夏を2回戦敗退で終えた比嘉は、その後は千葉県にある国際武道大へと進学する。
高校時代は無名の存在だった比嘉だが、国際武道大ではサイドスローから繰り出される140キロ後半の速球とシンカー、スライダー、スローカーブなどの緩急のある投球に磨きをかけ、4年間で通算29勝をマーク。リーグ優勝を達成し、3年次と4年次には春の全日本選手権(2003年、2004年)にも出場したが、いずれも初戦で敗退した。なお、比嘉は大学時代にMVP、最多勝、ベストナインを2度、奪三振王を1度獲得。4年時には1年間に13勝を挙げるなど、飛躍的な成長を遂げ、その存在を知られることとなった。
成長を証明した5年目!三菱自動車岡崎戦で見せた圧巻の投球
大学卒業後は日立製作所に入社し、荻野忠寛(元ロッテ)とともに1年目から先発のマウンドを任されたものの、夏の都市対抗野球では日産自動車に敗れ、3回戦で敗退。自身初の大舞台でのマウンドは、3回途中4失点という結果に終わった。3年目の2007年にはスポーツニッポン大会1回戦(対三菱自動車岡崎)を1失点に抑えて完投勝利を挙げると、優勝を手にした日立市長杯ではMVPを受賞した。
野球部での都市対抗野球出場は果たせなかったものの、比嘉は住友金属鹿島の補強選手として大会に出場しサヨナラ負け。東邦ガスの藤江均(元横浜DeNA)との投手戦に敗れて3連敗を喫したが、入社5年目の2009年には三菱自動車岡崎戦で7回無失点の好投し、チームの4年ぶりの初勝利に貢献。その後もチームの快進撃を支え、チームのベスト8に進出に貢献し、優秀選手賞を受賞した。
3連覇と日本一を支えるも、左ヒザの痛みとともに終えた現役シーズン
2009年のドラフト2位でオリックス・バファローズに入団。1年目の2010年春季キャンプから一軍入りを果たし、途中離脱しながらも、シーズン中はリリーフとして24試合に登板。9月4日のソフトバンク戦では、同点の5回2死満塁の緊迫した場面でマウンドに上がると、多村仁志を三振に奪って味方の援護を呼び込み、プロ初勝利を挙げた。シーズン成績は2勝1敗1ホールドで締めくくった。
2011年は右肘痛の影響で23試合の登板にとどまり、0勝0敗3ホールド、防御率7.15と低迷したが、2012年の後半から復調。2013年には59試合に登板し、4勝3敗11ホールド、防御率2.12という成績を残した。2014年には、パリーグ記録となる34試合連続無失点を達成するなど、安定した投球でチームを支え、自己最多となる62試合に登板。7勝1敗20ホールド、防御率0.79という好成績を収めた。10月2日の最終戦ではソフトバンクの松田宣浩に決勝本塁打を打たれ、リーグ優勝を逃したが、チームの飛躍を支えた。
2015年以降は右肩関節唇の修復手術を受けた影響で一時的に低迷し、登板回数も減少したが、2018年には43試合に登板して再び存在感を示すと、チームのブルペンを支えた。チームが25年ぶりのリーグ優勝を手にした2021年には、不調による2軍降格を経験。しかし夏場以降に復調し、32試合のマウンドに上がり、1勝11ホールド、防御率1.77をマーク。
自身初の日本シリーズでは、ヤクルトスワローズとの対戦で第1戦の勝利に貢献した。翌年以降も、若手投手が揃う中継ぎ陣の中で、ベテランらしい味のある投球でチームの3連覇と2022年の日本一に貢献したが、2024年4月に左ヒザの軟骨損傷により登録を抹消。本来ならば手術が必要なほどの重症であったが、回復に要する時間を鑑みて、保存療法で復帰を目指した。しかし、かつてのパフォーマンスには戻らず、残念ながら一軍復帰を果たせぬまま、今季限りでユニフォームを脱ぐこととなった。
プロフィール
名前:比嘉幹貴(ひがもとき)
出身:沖縄県
生年月日:1982年12月7日
身長/体重:177cm/77kg
投打:右投げ右打ち
ポジション:cái bình
ドラフト:2009年ドラフト2位
経歴:沖縄市立中の町小学校-沖縄市立コザ中学校-コザ高校-国際武道大学-日立製作所-オリックス・バファローズ
通算成績
実働14年:418試合/26勝11敗/防御率2.65
※記事内の情報は配信時点の情報です(2024年12月現在)

Lựa chọn trở thành "huấn luyện viên du lịch" -- thực tế của Yasuo Nishioka trong "thế giới cạnh tranh"

Phép màu của một kẻ thua cuộc may mắn - Cơn lốc niềm vui của Eva Liss tại Giải quần vợt Úc mở rộng

Sức mạnh của Nữ hoàng, tài năng tỏa sáng của cô ấy và những dấu hiệu phục hồi: những vở kịch đã thắp sáng Miami Open
