
「400メートルをやらせたい」“大橋悠依”滋賀で踏み出した競泳人生と恩師との出会い、競技生活で闘った“最大の試練”
競泳女子個人メドレーの第一人者として活躍した大橋悠依は、2024年9月に現役を引退。およそ21年にわたる競技生活に終止符を打った。大橋は2021年の東京五輪で200メートルと400メートル個人メドレーで金メダルに輝き、女子選手では史上初となる夏季五輪での2冠を達成した。今回キングギアでは大橋に独占インタビューを実施し、キャリアの始まりから貧血の症状に苦しんだ大学時代の出来事などを語ってもらった。※トップ画像撮影/長田慶

子どものころの夢は「アイス屋さん」
ーー去年現役を引退されて時間が経ちました。振り返ってみて今の想いを聞かせてください
結構ゆっくりする時間があったりので、大分振り返ることができています。自分の想像していた以上に活躍できた水泳人生でもありましたし、終わってみると未練はなくて今は自由に暮らしています。
ーー引退会見では自分の競技生活を「95点」とお話しされてました。それは今も変わらないですか?
それは今も変わらないです。五輪で金メダルを獲得することができましたけど、世界記録が達成できなかったので、そこを入れると100点ではなかったのかなと。ですが、できる限りのことはできたかなとは思っています。
ーー幼稚園の時に地元の滋賀県彦根市で水泳を始められました。自ら始められたんですか?
もともと通っていた2人の姉がいたこともあり、始めようと自分で思ったというよりかは、付いて行っているうちに親に「入る?」と言われて入ったという感じです。最初は週1回でした。
ーーご両親が水泳選手に育てたいというわけではなかったんですか?
もともと喘息や食べ物のアレルギーとかがあるので、体が弱いのをどうにかしたいというのが親にはあったと思うんです。競泳選手になってほしいとか、スポーツ選手になってほしいというのはなかったと思います。
ーーちなみにご自身は子どものころ何になりたかったんでしょうか?
サーティーワンの店員になりたかったです(笑)小学校2年生とかまではアイスクリーム屋さんになりたくて。その後は「絶対これになりたい!」というものはなかったと思います。
ーーその後、ジュニアの大会などで結果を出されていくと思うんですけど、そういう時期になると続けていて自信が持てたりしましたか?
漠然と「どこまで続けるのかな?」とは思っていて、高校も大学も水泳で進学していくんですが、中学のころとかは大学生になってどういう進路があるとか日本代表にどうやって入るのかとか分からなかった。あまり水泳1本とか進路については考えていなかったです。

名スイマーを育てた平井さんとの出会い
ーー個人メドレーを選択していますがこれは自ら選んだのか、続けていくうちに個人メドレーが向いているとなったのか、いかがでしょうか?
もともと初めてジュニアオリンピックに出たのが小学校3年生で、種目は背泳ぎだったんです。そこから背泳ぎと、当時のコーチの勧めでバタフライに出たりしているうちに「個人メドレーも泳げるんじゃないか?」となって。そのコーチがあまり種目を絞らずに「全員この試合は個人メドレーにエントリーする」ということをする先生だったので、その時に個人メドレーを泳ぐようになりました。
1種目だと優勝できなかったり上位にいけないというなかで、個人メドレーだと決勝に残れたりしていたので、もしかしたら自分は個人メドレーなんじゃないかと思いました。
ーーキャリアを中学、高校、大学と進めていったと思いますが、ご自身でターニングポイントになったタイミングはありますか?
高校2年生の時にたまたま4、5月くらいの成績がよくて、夏にあったジュニアのパンパシフィック選手権という大会で日本代表に選んでもらったんです。その時に自分より速い人がいるのを間近で見れたり、平井伯昌先生に出会えたので、それは大きかったと思います。
ーー平井伯昌氏は北島康介氏をはじめ数々の名スイマーを育てられた方です。平井氏と出会った時期のことは覚えていますか?
最初はジュニアパンパシフィックの監督が平井先生だったと思うんですが、ハワイでの大会期間中にすごく気にかけてくれました。補食が置いてあったんですけど「これを食べろ」とか言っていて。
その時に「大学どこに行くか考えているの?」と聞かれて、「全然考えていないんです。まだ続けるかも分からないです」と言ったら、その次の年から平井先生が東洋大学で監督をされることが決まっていた。「東洋に来ないか?」と言われて、「なんで北島さんを育てたコーチが私に声をかけているんだろう?」と思ったのが最初でした。
ーー平井氏としては将来的にトップスイマーにしたいという狙いがあったんでしょうか?
たしか5月のジャパンオープンで私の泳ぎを見てくださったらしいんですけど、まだまだ遅かったし、全然伸び代があるという感じでした。私は400メートルの個人メドレーがキツくてすごく嫌だったんですけど、「多分200メートルじゃなくて400メートルだな」と思っていたのは聞きました。ジュニアパンパシフィックの時も400メートル個人メドレーの時に出る種目がなくて、平井先生が勝手に「大橋は400の個人メドレーで」って入れたらしくて(笑)その大会でも200メートルはあまりよくなかったんですけど、400メートルは6秒くらい速いベストが出て、その時に「400メートルをやらせたい」と思ったそうです。

東洋大に進学後苦しんだ「貧血」
ーーその後、東洋大学に入られたあと、2年生の時に貧血の症状に苦しんだ時期があると思います。この時のお話を聞かせてください
大学1年生の3月くらいにいつも通り泳いでるんですけどタイムが遅かったり、スタートして浮き上がってきたらもう200メートルの最後の50メートルを泳いでいるような体のキツさがあって、「これはなんだろう?」というところから始まりました。4月に日本選手権があったんですが、頑張ってるんだけど程遠い感覚があって。その日本選手権は最下位に終わってしまいました。
ーーその症状が分かってどう克服していったんでしょうか?
結局半年くらい原因が分からないままずっと泳いで、でも全然ダメで、みたいな状況でした。9月くらいに母親が病院に連れていってくれて血液検査をしたらすごい貧血だったというのが分かり、大きな病院へ行きました。そこから最初は服薬治療で鉄とかビタミンとかを飲み始めて、そこから1カ月くらいで短水路の日本選手権で標準記録が切れるくらいまでには戻った感じです。
ーーその時期は競泳人生で一番苦しい時期でしたか?
そうですね。タイムが出ないこともそうですし、やる気の問題だと思われたりもして。周りからも言われることがあったし、「自分のせいなのかな?」とかいろいろなことを思って、ひとりでいることも多かったので辛かったです。母親が心配してくれて、食べ物とかをクール便で送ってくれて、そういうのは大きかったです。
ーーそこからカムバックして、再びトップの争いに入っていたのはどのタイミングですか?
貧血が治り始めた次の年がリオ五輪の選考会だったので、五輪に手が届くとは全然考えていなかったんですが、日本選手権で決勝に残ったこともなくて、当時は年下にも全然自分より速い選手がいたこともあって、「その選手がいたら今日は3位かな?」とか考えていたんです。けれど、そういうのは止めて、自分ができることをやってみようということを貧血を経て思って。そこからリオ五輪の選考会までは相手を見ずに、自分のことだけに集中していました。
ーーもともと自身のキャリアで2016年のリオ五輪は目指していたものでしたか?
当時は清水咲子さんと高橋美帆さんという2選手がいたので、まだまだそこには届かないと思っていて、変なことを考えて自滅するよりは、自分の記録を速くするとか自分の目標を達成することが優先だなと思いました。

大橋悠依(おおはし・ゆい)
1995年10月18日生まれ、滋賀県彦根市出身。イトマン特別コーチ。2018年4月1日株式会社ナガセ入社。幼稚園時代に姉の影響を受けて、彦根イトマンスイミングスクールで水泳を始める。小学校3年生の時に50m背泳ぎで初めてジュニアオリンピックに出場。2014年に東洋大学に入学。2017年の日本選手権にて400m個人メドレーで日本新記録を樹立。世界水泳(ブダペスト)では200m個人メドレーで銀メダル(日本新記録)を獲得。2021年東京オリンピックでは400m個人メドレー・200m個人メドレーにおいて日本女子史上初2冠を達成した。2024年パリオリンピック200m個人メドレーに出場。2024年9月現役引退。
Ảnh:Kei Osada

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