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"Kunimoto Kamoto" Bóng đá cao nhất nước Nhật ghi bàn cao nhất ghi bàn thứ hai tập "Công việc của tôi là đưa điểm vào"

Ông Kunimoto Kamoto, người đã tự tạo ra những cú đột biến trong trường trung học Yamashiro, đã thành công lớn trong vai trò một cầu thủ trẻ quốc gia Nhật Bản và gia nhập Câu lạc bộ Bóng đá Đại học Waseda. Ngay cả sau đó tôi đã hoàn thành một số thành tựu và lớn lên trở thành một tiền đạo đại diện tại Nhật Bản. Ông Kamoto sẽ nhận được nhiều đột biến trong độ tuổi của người chơi.

Biểu tượng aff20898 d2d2 431d 8b05 0f3c5e5ae91bHidemi Sakuma | 2017/11/13
<第1話、こちらから。>

――当時、トレーナーはいましたか。
 

釜本:基本的にいなけど、メキシコオリンピックの時はいたよね。怪我したら現地の病院に行ってたよ。

今は最高な状態でやってるよな。グランドが少し悪いとグランドのせいにして。昔なんて芝は四隅にしかなかったよね。芝生と言っても、ぺんぺん草が生えているような。  

僕等の頃は、高校サッカーは兵庫県の西宮でやってて、1つだけ芝生のグランドがあり決勝だけそこでやってたよ。白色のユニフォームなんて着てたら、洗濯しても汚れが落ちないし。

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――山城高校のユニフォームは白だったのですか。  

釜本:白ではなくて、何かおかしな色や(笑)。 

――そうなのですね()。早稲田大学に進学されましたね。 

釜本
:実業団は、ちょこっとサッカーをやりだした程度だったから大学に行ったよね。全日本選手権、都市対抗、実業団選手権等があっても、僕が大学2年の時に出た東京オリンピックの後に、クラマーさん(デットマール・クラマー氏:ドイツ人サッカー指導者。日本サッカーの基礎を築いたと言われている。)が、それでは駄目だと言って、JSL(日本サッカーリーグ)が始まり、古河電工、三菱、日立等の大企業もサッカーをやりだしたよね。僕が入ったJSLのヤンマーは弱かったね。

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――大学リーグでは、
4年連続得点王など輝かしい成績を沢山残されました。
 

釜本:そうですね(笑)。僕の仕事は、点を入れることだから一生懸命練習しただけ。

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――大学時代のシューズはどうでしたか。 

釜本:大学の時は、ヤスダの靴を履いてたよ。2年生の時に東京オリンピック前に初めて日本代表に入って、ヨーロッパに行った時にアディダスの靴を貰ったんだよね。

その当時、アディダスの3本線の靴を履いているのは日本の代表選手だけで、それから兼松江商が中継するようになり、日本の運動具店にアディダスが入っていったよね。当時は高くてなかなか買えないし、練習の時は履かなかったよ。


その後に、アシックスが出てきたね。日本の代表選手がアディダスの運動靴とスパイクを1足ずつ貰っていたと思うよ。よく磨いて神棚の上に祭ってあったね。

ビルマ(ミャンマー)のスパイクを履いたこともあるよ(笑)。軽くて蹴り易くて好きだったね。水牛の革靴でビューっと先が尖がっていて、紐を通すところが3本位しかなかったかな。足にぴたっとフィットしてたよ。履く前に水で濡らしてみると、水牛だから柔らかくなってたね(笑)。履いたのは、ちょっとの間だったよ。

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――そのスパイクは、今でもありますか。 

釜本:そりゃ、ビルマに行ったらあるでしょ(笑)。

僕は今、デサントさんのアンブロの靴を履いているよ。アディダスジャパンができる前に、昔はデサントさんがアディダスをやっていたから、40歳で引退する時はアディダスの靴を履いてたよね。
 

――大学で大活躍をされてヤンマーに進まれましたね。 

釜本:関西でJSLに参加していたチームがヤンマーだけだったんだよね。リーグでは7,8位で、「何で俺がこんなところへ行かなあかんのや!」と思ったけどね。大学で東京に行ってたから、「こっちに帰って来い!」と先輩が言うからヤンマーに入ったよ。皆「何ぼか、貰ったやろ!」と言ってたけど、一銭も貰ってないよ(笑)。 

――ヤンマーサッカー部はどうでしたか。 

釜本:2部リーグに落ちるかどうかだったけど、僕がヤンマーに入ることによって3年位で選手を沢山獲得したよね。海外からもネルソン吉村とか来たから急に強くなった。彼らは、ブラジルでプロ選手ではなくサッカーは上手くなかったけど、感覚はあったよね。セルジオ越後はコリンチャンスでやってたから上手かったよ。 

それから、東京オリンピックやメキシコオリンピックの頃は個性の強い人が沢山出てきたからね。今はあんまり個性ある選手が出てこないでしょ。その原因が何かっていうのを、誰も言わないよね。

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――原因をどうお考えですか。 

釜本:それは個人の練習をしてないからだよ。チームとしての練習ばかりでしょ。だから僕はよく言うんだけど、鳥籠みたいなボール回しをチャッチャッチャッチャよくやってるじゃん。あれは遊びであり、練習ではないね。日本は、 ああいうことを沢山やり過ぎるんだよね。

昔はパスと言ったらピンポイントで出さなければならなかったよ。それだけで世界的な代表として財産を築いた人もいるからね。ベッカムみたいにビューンとピンポイントでボールを味方に合わすようなことを、何で日本の選手がやらないのかと思うよ。それと、1対1のボールの奪い合いだとかをあんまりやらないでしょ。

――なぜ、そのようなことになっているのですかね。

釜本:よく分からんけど、例えば、高校や大学の部員が250だとか300名もいる所もあるから、そこではボールを蹴れないよね。1対1の勝負もできないし、場所がないしどうやって練習をしているのかと思うよ。


日本人は個を強くする必要があるのに、そのための練習をしてないよね。僕が高校の時は、サッカー部に30名もいなかったからよく練習をしたよね。大学に行って試合で点を取れない時があると、「釜本は駄目か!」と言われたから、シュートの練習ばかりをしてたよね。
 

――シュート練習の内容を教えていただけますか。 

釜本:ボールを置いて、プレスキックの練習だね。蹴る場所をきちっと決めて、自分の正確なフォームで蹴れる位置にボールをピタッと置いて蹴れば良いわけでしょ。まず止めなければならないし、止めて集中してドーンと瞬間で蹴るんやね。動いてるボールを蹴るのではなくて、トラップをして止めてから蹴れば良いわけだよ。

ダイレクトで蹴るのは、動いてるボールを蹴るわけだから難しいよね。正確にボールが止まらなければ、蹴ったら駄目なんだよ。ボールが来たら正確に速く持ち直さなければならないのを分かっていなければ、何回蹴っても一緒だね。たまたま蹴ってゴールに入るのではなく、計算尽してから蹴らないと。

第3話へ続く。 


■プロフ
ィール

釜本邦茂(かまもと くにしげ)
1944年 京都出身
元サッカー日本代表
京都文教大学 客員教授

早稲田大学1年生で東京オリンピックに出場。大学リーグ4年連続得点王。卒業後ヤンマーディーゼルに入社。日本リーグ通算202得点。1968年メキシコオリンピックで銅メダル獲得、7得点。日本代表国際Aマッチ75得点(歴代1位)。国際Aマッチ得点率0.98は、世界歴代1位。現役引退後ヤンマーディーゼル・ガンバ大阪で監督を歴任。1995年参議院議員に当選。1998年から2008年7月まで財団法人 日本サッカー協会の副会長を務める。2005年には第一回サッカー殿堂に最年少で選出された。2006年には、京都文教大学の客員教授に就任。現役引退後から今日まで全国各地で既に1000回を超えるサッカー教室を開催し、のべ500,000人を超える子供たちを指導している。その中には中田英寿、中村俊輔、川口、宮本、稲本、大黒など、数多くの子供たちが後に日本代表選手へと成長している。2014年5月に旭日中綬章受章。

Ảnh phỏng vấn / Hidemi Sakuma