Da đen giữ 1 "Ryuji Bando × parameco" thứ nhất
カラースパイク全盛の時代に、 播戸竜二はなぜ黒革のスパイクを選ぶのか。 大宮アルディージャでプロ19年目を過ごす36歳のストライカーは、 真っ直ぐで熱くて、ゆるがせにはできない思いを、パラメヒコに寄せていた。
Hiroshi Totsuka
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2016/07/12
播戸竜二×パラメヒコ
──播戸選手といえば、カズさんとプーマの信奉者。
ということで、パラメヒコをずっと履いているわけですね?
播戸竜二選手(以下播戸)「カズさんがプーマだから、自分もプーマです。
僕が中学生のときだったかな、カズさんが監修のような感じで関わったスパイクが
プーマから発売されてそれはもちろん履いていました。
中学や高校は土のグラウンドがメインで、練習では高いスパイクは使わなかったですが、
一番憧れていたのはずっとパラメヒコでしたね」
──練習からパラメヒコを使うのは、部活生にはもったいなかったですよね。
播戸 「僕らが高校のときは、芝生で試合をできることがあまりなくて。
でも、高校3年生のときやったかな、時々あったんです。
そのときに履く特別なスパイクがパラメヒコでした。
名品中の名品ですから、土のグラウンドで履くなんてもったいない。
できるだけ長持ちさせたいから、芝生だけで使ってましたよ」
──プロ入り後はずっとプーマですか?
播戸 「僕はガンバ大阪からプロのキャリアをスタートさせたんですが、
当時のガンバはユニフォームがデサントで、デサントがアディダスを扱っていたので、
1年目はアディダスのスパイクを履いていました。
けれど、あまり履いたことがなかったからか、馴染みが良くなくて……。
そんなときにU-19日本代表に呼ばれて、当時は代表のサプライヤーが持ち回りだったじゃないですか」
──プーマ、アディダス、アシックスの3社が、
1年ごとに代表、年代別代表、女子代表などのサプライヤーを交代で担当していた時代ですね。
播戸 「で、ちょうど僕の選ばれたU-19日本代表はプーマで、パラメヒコを履いたんです」
──すでに表情が嬉しそうです(笑)
播戸 「やっぱりパラメやなあ、いいなあ~と思ったんです(笑)
で、プーマの人に履かせてくださいとお願いして、プロ2年目に契約をしてもらったんです。
それからずっとプーマです」
──99年のワールドユースでは、確かこの年からアディダスが日本代表の全カテゴリーのサプライヤー
となり、U-20日本代表となった播戸選手たちも、全員がアディダスのスパイクを履いていましたね。
播戸 「そうそう、僕も黒×白のコパ・ムンディアルを履いたんですけど、あまり合わなかったです。
コパムンはアディダスの名品ですけどね」
──いま写真で見ても、何となく馴染みません(笑)。
播戸選手はパラメじゃないと。あ、僕もこれからは『パラメ』って言わせてもらいます。
播戸 「パラメのほかにもね、『デルムンド』とか『セラレータ』とか、
コンサドーレ札幌でプレーした時期に違うスパイクを履いたことがあります。
2001年に銀色を使った『セラレータ』を履きました」
──カラースパイクを?
播戸 「最先端やから気持ち良かったんですけど、いまは誰もがカラースパイクじゃないですか。
だから、やっぱり黒のアッパーで白のラインで、シンプルなのが一番いい。
で、この白いラインを磨いていくとちょっと黒くなるのが、一番カッコええなあと思って。
その昔、ビスマルクがミズノのスパイクを履いていて、ラインを黒く塗っていて、
それがカッコええなあと思ったんですけど、ビジネス的なものなんだとあとから聞いて」
──ラインを塗り潰すのは、「恋人募集中」のメッセージですよね。
播戸 「そういうことやったんかと、あとから思いました。
あれはヴィッセル神戸にいたときで、確か2003年だったかなあ……
ブラジル代表の流れで、ナイキもカッコええなあと思ったことがあって。
ロマーリオとかロナウドも履いてたので、練習で一度だけ試し履き
したことがあったんですよ。全部黒く塗って」
──長いキャリアでは、そういうことも一度くらいはあるはずです。
というか、そういうことをしたことがある選手は、播戸さんだけでないでしょう。
播戸 「そうしたら、カズさんにすぐに言われました。
『おいバン、何を履いてんだよ、プーマじゃなきゃダメだろ」って。
『あ、そうですよね』って(苦笑)』
──すぐに気づくカズさんがすごい!
播戸 「いまならそんなことは絶対にしませんし、後にも先にもそれ一度キリなんですけど……。
実際に履いたら、やっぱり自分の足には合わんかった。
自分はプーマじゃなきゃダメだと、改めて知るきっかけになりました」
(第2回に続く)
取材協力:大宮アルディージャ
取材:戸塚啓 写真:清水知良