日本大学スポーツ科学部長「小山裕三」氏が掲げる世界一の選手の育て方
日本大学スポーツ科学部には平昌オリンピックのメダリストも在籍し、学業とスポーツに専念できる環境が整っている。スポーツ科学部長の小山裕三氏はオリンピック金メダリストに指導をし、世界陸上やオリンピックの解説者としても活躍をしている。小山氏が掲げる教育とは、どのようなものなのか?熱い想いを語っていただいた。
Hidemi Sakuma
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2019/02/18
「小山裕三」氏が掲げるスポーツを通じた教育
ーー高校時代に日本一となり、日本大学へ進学した小山氏
oyama:高校時代は、混成競技(1人の選手が複数の競技を行う陸上競技種目)のインター杯で優勝し、100m走も10秒台でした。 高校を卒業してからは「ハンマー投げでオリンピックに行きたい」と思うようになり、ハンマー投げの有力選手たちが集まる日本大学への進学希望を出しました。インター杯で優勝しているので色々な大学から誘いがありましたが、当時の私は180cm、70kg。ハンマー投げをやるには身体が細かったこともあり、日本大学からは声がかからなかったんですよね。
ですが、どうしてもハンマー投げでオリンピックに行きたかったので、どうにか日本大学に入れてもらいましたが、「投てきに向かない」と言われて3ヶ月でクビになってしまいました。
退部になった時期に、越谷高校の教師で、日本選手権で砲丸投げ十連覇を達成した青木正純さんから連絡がありました。高校時代に指導してもらったことがあり、同じ日本大学ということもあって、すぐに私がクビになったことが伝わったのでしょう。
「日大に来たけれど、クビになったら意味ないな、やめたい」と、そんな状況の時に高校の顧問だった先生に思いの丈を伝えたんですが、「バカヤロー!一度入ったからには、最後まで一生懸命やれ!砲丸投げをやれ!オリンピックは遠いかもしれないけれど、やってみたら面白い。バネがあれば細い身体でも可能性がある」と青木さんの説得があり、砲丸投げに専念することになりました。
ーー砲丸投げ選手として日本一に
oyama:砲丸投げでは、インカレで3連覇、4年時には全日本学生陸上でも勝って学生記録も作りましたが、勢いで臨んだ日本選手権では青木正純さんに3cm差を逆転され、負けてしまいました。砲丸投げの日本代表として出場したアジア大会では6位でしたね。
高校時代のクラス担任だった滝田詔生先生の「日大を卒業したら成田高校に戻ってこい」という言葉が決め手となり、卒業後に成田高校の教員なりました。滝田先生は後に女子マラソンの増田明美、ハンマー投げの室伏広治といった日本を代表する選手を育成され、私の恩師でもある方です。
成田高校で教員と指導者をやりながら選手生活を続け、日本選手権でも連覇を果たすことができました。
ーー現役引退を決意した理由
oyama:鹿児島インターハイで男子砲丸投に3選手が出場し、3選手とも決勝(ベスト12)に進出しました。しかし結果は6位、10位、11位でした。結果に対して悔しくて涙を流しました。そこで何が原因かを何日かかけて真剣に悩みました。私が立てた3年間の練習スケジュールもしっかり見直しました。
そこで気づいたことは、計画された練習内容が生徒のものではなく、私のための練習であったことです。まだ現役としても日本では砲丸投の第一人者でした。年齢もまだ26歳だったのですが、選手と指導者の二股は無理だと判断しました。指導者として「高校生を優勝させたい」と思い、選手生活にピリオドを打つことを決めました。その3年後に砲丸投でインターハイ優勝、高校記録を樹立させることができました。
平成4年に職場が日本大学に移りましたが、これまでに指導した選手の成績は「平成」になって29回開かれている日本選手権で、22勝7敗です。外国人選手に3回、日本人選手に4回負けてしまいましたが、それ以外の大会では、指導した選手が優勝を掴んでいます。
ーー解説者として学ぶこと
oyama:世界陸上やオリンピックでの解説の仕事は、本当にいい勉強になります。テレビで話しているのはごく僅かですが、世界のトップに君臨している選手の競技スタイルや特徴を全部見ることになるので、本当に勉強になります。投てき4種の選手たちを見ていると、指導者がどんな指導をしているかも見えてきますからね。
やり投げの村上幸史君にも「背中を大きくしろ」とアドバイスをすると、筋力トレーニングでパワーアップをして世界選手権で銅メダル獲得してくれたので、嬉しかったですね。
アテネオリンピックでの室伏広治君の優勝もよく覚えています。試合会場では惜しくも2位で終えましたが、後に1位の選手がドーピングにより失格となり、室伏君が繰り上げにより優勝が決定となりました。教え子がオリンピックで世界一という結果を出した場で解説できたので、感無量でしたね。
印象に残っていたのは、アテネオリンピックで、室伏君が競技中に大の字になり空を見ていたシーンです。「何で空を見ていたんだ?」と、試合後に聞いてみると、「観客の歓声が大き過ぎて、自分の位置が分からなくなり、何をしているのか分からなかった。そんな状況で空を見てみると、1つの星が目に入り、『この星を見ているのは俺だけだ』と思うと我に返り、冷静さを取り戻すことができた」と言っていたんですよね。
一流アスリート同士の勝負になると、技術よりも感覚が大事だったりすることがあります。競技をする時に聞こえる音や足の裏の感覚を冷静に感じ取れたことが、「金メダリスト室伏広治」誕生の背景にあると私は思っています。
ーー2004年アテネオリンピック金メダリストの室伏広治選手を指導してみて
oyama:出会った頃は身体も細く、「えんぴつ」のような印象を持ちました。でも節々は当時から大きかったので、鍛えれば将来的に身体が大きくなる可能性は秘めていると思っていました。当時の室伏君は自分の意志がとても強く、彼が納得いく練習となるように、私と私の教え子のセカンドコーチは苦労させられましたね(笑)。
ーー 一流選手を育てる秘訣とは
oyama:「型を持って型にこだわらない」ということでしょうか。選手は十人十色で、私自身とは違う伸び方をする可能性を秘めています。基本を教える必要性がありますが、ある程度先からは自分自身の型を見つけて頑張っていく姿勢が必要だと思います。
過度に教えすぎたり強制してしまうと、選手自身に考える余裕がなくなるので選手のためにはなりません。競技に関して100%把握していて、相手の気持ちになって教える分量を変えることができるかが、選手を育てるために一番大切なことだと思います。
ーーコーチとして活躍できる人の特徴について
oyama:アスリートは、自分のことしか考えていない人が殆どです。教える経験がなければ、他人のことを考えるのは難しいのではないかと思います。自分の競技のことだけを考えている人がそのままコーチになると、他人に上手く伝えられなかったり、独りよがりになったりして、良いコーチにはなれないと思います。
人間は基本的に「褒めないと育たない」と考えています。褒められて育ってきた人を怒っても心が折れてしまうし、怒られて育った人を褒めても不信感を持たれてしまいます。基本的に人は褒めないと動きません。ここぞという時に怒ることは大切ですが、愛情と情熱を持って褒めて育てることが重要ではないかと思います。
ーー現在の教育や学校について考えること
oyamaGiáo dục世の中できちんと生活していくためには、学力はもちろん大切ですが、それ以上に常識や教養を持ち併せていないといけません。自己の理解、他者への配慮ですね。スポーツを通じて挨拶や敬語をきちんと身に付けることができるので、素晴らしいと思います。
しかし、だんだんと情操教育をできる環境が減ってきていると思うので、このあたりは今後の教育現場の課題といえるかもしれません。 (了)
Khoa Khoa học Thể thao, Đại học Nihon
https://www.nihon-u.ac.jp/sports_sciences/
<Hồ sơ>
Yuzo KoyamaYuzo)
Giáo sư, Trưởng khoa Khoa học Thể thao, Đại học Nihon Tiến sĩ (Khoa học thể thao)
Tốt nghiệp Đại học Nihon Khoa Luật, Khoa Hành chính
Cựu kỷ lục gia trong nhà Nhật Bản ở nội dung ném bóng
Sản sinh ra nhiều nhà vô địch Nhật Bản với tư cách là quản lý của đội điền kinh Đại học Nihon
Cũng hoạt động với tư cách là bình luận viên TBS cho các sự kiện ném tại "Thế vận hội" và "Điền kinh thế giới"
ーー高校時代に日本一となり、日本大学へ進学した小山氏
oyama:高校時代は、混成競技(1人の選手が複数の競技を行う陸上競技種目)のインター杯で優勝し、100m走も10秒台でした。 高校を卒業してからは「ハンマー投げでオリンピックに行きたい」と思うようになり、ハンマー投げの有力選手たちが集まる日本大学への進学希望を出しました。インター杯で優勝しているので色々な大学から誘いがありましたが、当時の私は180cm、70kg。ハンマー投げをやるには身体が細かったこともあり、日本大学からは声がかからなかったんですよね。
ですが、どうしてもハンマー投げでオリンピックに行きたかったので、どうにか日本大学に入れてもらいましたが、「投てきに向かない」と言われて3ヶ月でクビになってしまいました。
退部になった時期に、越谷高校の教師で、日本選手権で砲丸投げ十連覇を達成した青木正純さんから連絡がありました。高校時代に指導してもらったことがあり、同じ日本大学ということもあって、すぐに私がクビになったことが伝わったのでしょう。
「日大に来たけれど、クビになったら意味ないな、やめたい」と、そんな状況の時に高校の顧問だった先生に思いの丈を伝えたんですが、「バカヤロー!一度入ったからには、最後まで一生懸命やれ!砲丸投げをやれ!オリンピックは遠いかもしれないけれど、やってみたら面白い。バネがあれば細い身体でも可能性がある」と青木さんの説得があり、砲丸投げに専念することになりました。
ーー砲丸投げ選手として日本一に
oyama:砲丸投げでは、インカレで3連覇、4年時には全日本学生陸上でも勝って学生記録も作りましたが、勢いで臨んだ日本選手権では青木正純さんに3cm差を逆転され、負けてしまいました。砲丸投げの日本代表として出場したアジア大会では6位でしたね。
高校時代のクラス担任だった滝田詔生先生の「日大を卒業したら成田高校に戻ってこい」という言葉が決め手となり、卒業後に成田高校の教員なりました。滝田先生は後に女子マラソンの増田明美、ハンマー投げの室伏広治といった日本を代表する選手を育成され、私の恩師でもある方です。
成田高校で教員と指導者をやりながら選手生活を続け、日本選手権でも連覇を果たすことができました。
ーー現役引退を決意した理由
oyama:鹿児島インターハイで男子砲丸投に3選手が出場し、3選手とも決勝(ベスト12)に進出しました。しかし結果は6位、10位、11位でした。結果に対して悔しくて涙を流しました。そこで何が原因かを何日かかけて真剣に悩みました。私が立てた3年間の練習スケジュールもしっかり見直しました。
そこで気づいたことは、計画された練習内容が生徒のものではなく、私のための練習であったことです。まだ現役としても日本では砲丸投の第一人者でした。年齢もまだ26歳だったのですが、選手と指導者の二股は無理だと判断しました。指導者として「高校生を優勝させたい」と思い、選手生活にピリオドを打つことを決めました。その3年後に砲丸投でインターハイ優勝、高校記録を樹立させることができました。
平成4年に職場が日本大学に移りましたが、これまでに指導した選手の成績は「平成」になって29回開かれている日本選手権で、22勝7敗です。外国人選手に3回、日本人選手に4回負けてしまいましたが、それ以外の大会では、指導した選手が優勝を掴んでいます。
ーー解説者として学ぶこと
oyama:世界陸上やオリンピックでの解説の仕事は、本当にいい勉強になります。テレビで話しているのはごく僅かですが、世界のトップに君臨している選手の競技スタイルや特徴を全部見ることになるので、本当に勉強になります。投てき4種の選手たちを見ていると、指導者がどんな指導をしているかも見えてきますからね。
やり投げの村上幸史君にも「背中を大きくしろ」とアドバイスをすると、筋力トレーニングでパワーアップをして世界選手権で銅メダル獲得してくれたので、嬉しかったですね。
アテネオリンピックでの室伏広治君の優勝もよく覚えています。試合会場では惜しくも2位で終えましたが、後に1位の選手がドーピングにより失格となり、室伏君が繰り上げにより優勝が決定となりました。教え子がオリンピックで世界一という結果を出した場で解説できたので、感無量でしたね。
印象に残っていたのは、アテネオリンピックで、室伏君が競技中に大の字になり空を見ていたシーンです。「何で空を見ていたんだ?」と、試合後に聞いてみると、「観客の歓声が大き過ぎて、自分の位置が分からなくなり、何をしているのか分からなかった。そんな状況で空を見てみると、1つの星が目に入り、『この星を見ているのは俺だけだ』と思うと我に返り、冷静さを取り戻すことができた」と言っていたんですよね。
一流アスリート同士の勝負になると、技術よりも感覚が大事だったりすることがあります。競技をする時に聞こえる音や足の裏の感覚を冷静に感じ取れたことが、「金メダリスト室伏広治」誕生の背景にあると私は思っています。
ーー2004年アテネオリンピック金メダリストの室伏広治選手を指導してみて
oyama:出会った頃は身体も細く、「えんぴつ」のような印象を持ちました。でも節々は当時から大きかったので、鍛えれば将来的に身体が大きくなる可能性は秘めていると思っていました。当時の室伏君は自分の意志がとても強く、彼が納得いく練習となるように、私と私の教え子のセカンドコーチは苦労させられましたね(笑)。
ーー 一流選手を育てる秘訣とは
oyama:「型を持って型にこだわらない」ということでしょうか。選手は十人十色で、私自身とは違う伸び方をする可能性を秘めています。基本を教える必要性がありますが、ある程度先からは自分自身の型を見つけて頑張っていく姿勢が必要だと思います。
過度に教えすぎたり強制してしまうと、選手自身に考える余裕がなくなるので選手のためにはなりません。競技に関して100%把握していて、相手の気持ちになって教える分量を変えることができるかが、選手を育てるために一番大切なことだと思います。
ーーコーチとして活躍できる人の特徴について
oyama:アスリートは、自分のことしか考えていない人が殆どです。教える経験がなければ、他人のことを考えるのは難しいのではないかと思います。自分の競技のことだけを考えている人がそのままコーチになると、他人に上手く伝えられなかったり、独りよがりになったりして、良いコーチにはなれないと思います。
人間は基本的に「褒めないと育たない」と考えています。褒められて育ってきた人を怒っても心が折れてしまうし、怒られて育った人を褒めても不信感を持たれてしまいます。基本的に人は褒めないと動きません。ここぞという時に怒ることは大切ですが、愛情と情熱を持って褒めて育てることが重要ではないかと思います。
ーー現在の教育や学校について考えること
oyamaGiáo dục世の中できちんと生活していくためには、学力はもちろん大切ですが、それ以上に常識や教養を持ち併せていないといけません。自己の理解、他者への配慮ですね。スポーツを通じて挨拶や敬語をきちんと身に付けることができるので、素晴らしいと思います。
しかし、だんだんと情操教育をできる環境が減ってきていると思うので、このあたりは今後の教育現場の課題といえるかもしれません。 (了)
Khoa Khoa học Thể thao, Đại học Nihon
https://www.nihon-u.ac.jp/sports_sciences/
<Hồ sơ>
Yuzo KoyamaYuzo)
Giáo sư, Trưởng khoa Khoa học Thể thao, Đại học Nihon Tiến sĩ (Khoa học thể thao)
Tốt nghiệp Đại học Nihon Khoa Luật, Khoa Hành chính
Cựu kỷ lục gia trong nhà Nhật Bản ở nội dung ném bóng
Sản sinh ra nhiều nhà vô địch Nhật Bản với tư cách là quản lý của đội điền kinh Đại học Nihon
Cũng hoạt động với tư cách là bình luận viên TBS cho các sự kiện ném tại "Thế vận hội" và "Điền kinh thế giới"