Honda Yasuto thật tuyệt vời! Vol.2 "Đó là một sự ngưỡng mộ, mô hình Teikyo của Yasuda"

Cậu bé Honda đã đi vào trường trung học uy tín · teikyo từ trường trung học ở Kitakyushu. Đằng sau việc nhập cảnh vào Teikyo, có một doanh thu táo bạo của cha anh.

Biểu tượng aff20898 d2d2 431d 8b05 0f3c5e5ae91bHidemi Sakuma | 2017/05/15
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――北九州の強豪中学サッカー部を経て、東京の帝京高校に進学しますが、どのような経緯で帝京に進むことになったのでしょうか?  

HondaGiáo dục中学の全国大会に出場した時に、対戦相手の選手を帝京高校の古沼貞雄監督が観に来ていて、その試合中に、なんと僕の父親が「息子を見てくれ」と売り込んでいたんですよ(笑)。

その試合で僕は3点取ってしまい、声がかかり帝京高校に行くことになりました。帝京の同期には礒貝洋光と森山泰行もいました。彼らとはジュニアユースの日本代表として、アジア大会二次予選でも一緒に戦いました。
 

――礒貝さんについて、数々のエピソードがあるみたいですね。  

HondaGiáo dục礒貝は初めて見たとき、言動、行動、プレーがあまりにもスケールが大きく、同い年とは思えず、大人かと思いました(笑)。彼は東海大を中退してガンバ大阪に入り活躍をしていましたが、試合翌日にゴルフをしに行っていましたし、当時からプロゴルファーを目指していたのでしょう。彼の話は尽きないですよ(笑)

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――帝京サッカー部の練習はどうでしたか?  

HondaGiáo dục5列に並んでブラジル体操を「1、2、3! 2、2、3!」と声を出しながら軍隊のように行っていたので、「帝京ってカッコイイ! 凄いな!」と思いました。

監督がいる時は基礎練習ばかりをやっていました。パス&ゴーであったり、パス&コントロールであったり。監督がいなくなると、なぜかボールから離れてひたすら走り込みばかりをしていました(笑)  

――高校時代はどのメーカーのスパイクを履いていたのですか?
 

HondaGiáo dục古沼先生がアシックスの方とお付き合いがあり、ジュニアユース代表もアシックスを着用していたので、アシックスを履き続けました。

――アシックスがサッカーに力を入れ始めた頃でしょうか。


HondaGiáo dụcそうだと思います。サッカー部ではヤスダの帝京モデル(ユニフォームと同色)のスパイクを履いている人が多かったので、羨ましかったですよ。自分も帝京モデルを持っていましたが、アシックスしか履けない立場にあったので、3年間部屋に飾っていました(笑)。アシックスは幅広で革が柔らかく、自分の足には合わなかったですけどね。  

――高校卒業後は、どのような道を選んだのですか?
 

HondaGiáo dục本田技研サッカー部がJリーグ入りを目指していると聞いていたので、高卒後の2年間は本田技研で会社員として働きながら、セミプロのような立場でサッカーをしていました。その後の2年間は会社とプロ契約をして、サッカーに打ち込みました。

F1などスポーツに力を入れていた本田宗一郎氏が亡くなり、社長が交代をしてから会社が方向転換をして、Jリーグ入りを断念したので愕然としましたよ(笑)。自分はプロサッカー選手として生きていきたかったので、Jリーグ入りをする数チームからオファーもあり、どうするべきか考えましたが、様子を観ながら本田に残りました。
 

――本田技研時代に履いていたスパイクは?
 

HondaGiáo dục本田技研に入った時はアシックスを履いていたのですが、サッカー部の先輩でアディダスのスパイクを履いていた黒崎久志さん(注・本田-鹿島-京都-神戸-新潟-大宮で活躍した、元日本代表FW)が、担当者を紹介してくれてアディダスと契約をし、支給された物を履いていました。

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――数あるJクラブの中から、なぜ鹿島アントラーズに加入したのですか?  

HondaGiáo dục本田技研4年目の時に、憧れのジーコがいる住友金属サッカー部(後の鹿島アントラーズ)と対戦することができました。そこで必死にディフェンスをするとジーコはかなり怒っていて、僕のことを覚えてくれるようになりました(笑)。

また、本田の総監督を務めていた宮本征勝さんが、翌年から住友金属サッカー部に監督として移動することが決まり、宮本さんから私を含めた7人に一緒にやろうとお誘いがあったので、移籍を決断しました。

ジーコと同じチームでプレーができますし、サッカー専用スタジアム、クラブハウス、グラウンドが何面も作られて、サッカーに打ち込める。環境の良さもあって、迷いは全くなかったですよ。  

――鹿島に入ってみて、どうでしたか?
 

HondaGiáo dục最初は酷かったです。ボールを蹴る、止める、重要なことが出来ていない選手ばかり。しかも走れない。宮本監督も悩んでしまって、最初の4ヶ月間は走り込みをし、本田技研でやっていた基礎練習を繰り返しました。

宮本さんは本田出身の選手に対して、かつ丼を御馳走してくれて頭を下げながら「申し訳ないけど、基礎練習を一緒にやってくれ!」と仰ったので、チームのためにと我慢しながらやっていたのを思い出します(笑)  

――当時、スパイクは何を履いていましたか?
 

HondaGiáo dục鹿島に移籍して、プロ選手としてアディダスと契約する予定でしたが、チームがユニフォームからスパイクまで全てミズノと契約してしまったので、2年間はミズノを履いていました。

その後、アディダスの方に足型を計ってもらい、オリジナルを履いていましたが、それがなぜか合わないんですよ(笑)。足のどこかがスパイク内部で引っ掛ってダメでした。

それで色々試して、市販の物で踵(かかと)の部分を重くして、足先を若干削って細くした物を履いていました。横にギュッと踏ん張った時に足のズレが無くなり、ターンがしやすくなりましたね。  

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――ピッチの状態に合わせて、スパイクを履き分けていましたか?

HondaGiáo dụcギュッと強く踏み込みたいので、どのようなピッチでも長めの取替え式のスパイクを履いていました。アディダスのスパイクは幅が細く、自分の要求を満たしてくれるので素晴らしいと思います。

自分とは対照的に、菊原志郎君(注・読売-浦和でプレーした元日本代表MF)は固定式しか履いていなかったですね。しかも、かなり緩めの物を紐を結ばずに履いていたので、シュートを打つと、スパイクがよく脱げていました(笑)。僕は紐に関しては、外側から通していき、緩まないようにきつく縛っています。
 

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-憧れのジーコは、どうでしたか?

Honda:ジーコには、とにかくビックリしましたね。ほとんど一緒に練習をしないで、新聞ばかり読んでいましたから(笑)。ジーコは基本的に自分で調整をしていて、週に1、2回、15分ぐらい一緒に練習をしていました。「当たり前だろ!」的な感じでやっていましたよね。

ジーコは日本の文化――例えば5分前行動などが大好きで、ブラジル人っぽくなかったですね。チームの移動着を黒のスーツ、白シャツ、黒の革靴と統一していた時に、シャツや靴の色が違う選手がいると「皆に合わせろよ!」と指摘をするなど規律を重んじていて、全てをサッカーに繋げて考えていたのだと思います。

第3話へ続く)   http://king-gear.com/articles/344

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